●東欧の民主化 とうおうのみんしゅか
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1985年ソ連でゴルバチョフが新書記長に選出され,ペレストロイカの政策を推し進めた。この政策は東欧諸国に大きな衝撃を与え,民主化・自由化を推し進める起爆剤となった。東欧諸国は,スターリン時代から,共産党による一党独裁制の強固な支配体制がとられていた。しかし経済の面では,資本主義社会のように企業の倒産とか,そのための失業などの現象は表面には現れてこないが,深刻な経済危機に陥っていた。ポーランドは,400億ドルの外債を負い,1980年代の初めには支払い不能に陥った。東ドイツも,西ドイツの援助がなかったら,国家の運営が不可能であったと思われる。1989年の秋から冬にかけて,東ドイツ・ブルガリア,およびチェコスロバキアに起こった改革は,短期間に社会を変革するとともに,他の東欧諸国に大きな影響を与えた。共産党による一党独裁制を廃止し,複数政党による自由選挙を実施し,議会制民主主義を取り入れていこうとした。東欧諸国がどのように民主化や自由化への道を歩んだか見てみよう。
【ポーランド】東欧で起こった変動の先行国である。1989年,マゾビエツキ政権が誕生した。マゾビエツキは非共産党出身者であり,連帯のブレーンであり,カトリック信者でもある。
1990年,マゾビエツキは,西側諸国の経済援助のもとで,インフレをおさえ,市場経済への移行を試みた。しかし,国営企業の倒産により多くの失業者が出て,国民の支持を失っていった。その後,連帯のワレサが大統領選挙に出馬し,当選した。しかし,政策はそれほど変わらず,今後,連帯に反対する動きもあり,政治不安に陥ることも予想される。
【チェコスロバキア】「人間の顔をした社会主義」を目指した「プラハの春」が,ソ連の介入で崩壊したあと,チェコとスロバキアでは,勤労意欲も低下し,国民経済の不振が続いた。
1989年,東欧の激しい改革の中で,「市民フォーラム」が生まれた。「市民フォーラム」は一党独裁を廃止し,自由選挙による議会制民主主義を要求した。
1990年の自由選挙では,「市民フォーラム」が圧勝し,市場経済への移行も始まり,小規模国営企業の民営化も始まった。しかし,インフレと失業者の増加により,成果は上がらず,「市民フォーラム」の支持者も減少し,厳しい現実に直面している。また,民主化の進行とともに,チェコからの独立を要求するスロバキアの民族運動も高まってきている。
【ハンガリー】1960年代から,ハンガリーでは,経済改革が始まった。それは政権党の自己改革から端を発した。本格的な政治改革は,1988年カーダールが退陣した時からである。価格統制が廃止され,個人所得税や付加価値税が導入され,会社法が制定され,今までの国営企業から株式会社組織に移行された。
政治面では,複数政党制が採用され,国会で憲法改正が審議されて党の指導性の条項が除かれた。
その後,地道に改革は進められているが,経済は向上せず,失業やインフレに見舞われ,成果は上がっていない。ハンガリーの民主化は,下からの改革のみでなく,上と相互に結びついた改革であった。
【東ドイツ】1989年11月9日,ベルリンの壁が崩壊したことは,誰しもが想像を越えた歴史的できごとであった。その理由は,ドイツは,社会主義諸国の中では最も政治的にも安定していた。
1989年夏,数万人の東ドイツ市民が,ハンガリーから国境を越え,オーストリアから西側諸国に出国した。東ドイツ国内でも,新フォーラムが形成され,民主化運動が拡大された。10月,ホーネッカ政権から,クレンツ政権に代わり,民主化の運動は全土に波及し,ベルリンの壁の崩壊へ結びついた。
1990年10月には,西ドイツが東ドイツを併合し,主権国家としての東ドイツは消滅した。
いまドイツは,GNPも大幅に低下し,失業者が増大し,経済再建には,かなりの時間を要するといわれている。
【ブルガリア】1989年,ベルリンの壁が崩壊すると,この影響はブルガリアにも大きな力を及ぼした。1989年11月には,「民主勢力同盟」が結成され,草の根の民主化運動が活発化した。1990年には,自由選挙と大統領制が導入され共産党も指導的役割を放棄,党名を社会党と改めた。その後,さらに改革を求める市民運動が高まり,6月の自由選挙では社会党が多数を占めた。しかし,市場経済への移行も,ソ連の原油供給の減少や,外貨不足などから,思うようにいかず,食料事情も悪く,政局も不安定である。
【ルーマニア】1989年12月25日,チャウシェスク夫妻が銃殺されたニュースは,全世界にテレビを通じて放映され,独裁体制の崩壊を目のあたりにさらした。東欧諸国の中で流血革命となったのは,ルーマニアのみである。その発端は,1989年12月東部のチミショアラで,反政府牧師が逮捕された。それを契機に反政府デモが発生し,全土に拡がった。革命側に国軍がついたため,チャウシェスク体制は崩壊し,救国戦線評議会が権力を握った。
1990年5月の自由選挙で,救国戦線評議会が勝利した。しかし,政治の形勢は不安定であり,経済的危機も続いている。
【ユーゴスラビア】チトー大統領の死後,民族紛争が激化し,共和国間の対立が深まった。そのうえ,経済は高いインフレ,失業対外債務の問題をかかえ,国民の生活水準は低下した。
1990年以後,東欧諸国の民主化に影響され,各共和国では,自由選挙による憲法の改正がなされた。6つある共和国の中で,独立国家を主張する国と現体制を維持する国との対立が起こった。特に連邦を主張するセルビア共和国と他の共和国との対立,それに各共和国内部における民族紛争も複雑にからみ,内戦へ発展した。現在,国連などによる調停も行われているが,現在,泥沼の様相を呈している。
【アルバニア】一党独裁の政治体制を維持しているのはアルバニアだけである。しかし,ここでも東欧諸国の改革を反映し,政策の転換がなされてきた。
1990年,小自営農民や小規模な私企業を認め,また,複数政党制や信教の自由を認めるなどの民主化政策がとられるようになった。1991年に入ると,民主化運動はさらに拡大し,他の東欧諸国と同じ道を進みつつある。
ソビエト連邦を中心に東欧諸国がとった共産党一党支配によるスターリン型社会主義は,1989年から1990年にかけての革命で一瞬のうちに解体した。戦後世界の冷戦体制は崩壊し,国際関係も大きく変化した。社会主義国の本家ソビエト連邦は消滅のうきめにあい,東欧諸国も新たな体制への模索を行っている。