●ドイツ統一・ベルリンの壁 ドイツとういつ・ベルリンのかべ
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第二次世界大戦後東西に分裂していたドイツは,1990年10月3日,民族悲願の統一を果たした。統一は,東ドイツ(ドイツ民主共和国)が西ドイツ(ドイツ連邦共和国)基本法適用領域に加入するというかたちをとった。【統一の背景】統一実現の第一の背景は,東ドイツから西ドイツへの移住者の激増である。終戦から1989年までの移住者総数は437万9千人にのぼるが,とくに急増した1989年だけで,34万4千人に達している。ドイツの分割が政治的分断であったこと,資本主義西ドイツの急速な経済成長に対して,社会主義東ドイツの経済が停滞したこと,自由主義国家西ドイツに対して,ソ連に忠実な東ドイツでは体制批判の白由が欠如していたことなどが基底にあるため,東ドイツからの移住の動機は,さまざまである。そこには,西ドイツ居住の家族に合流するための合法的移住者,東ドイツの政治犯や体制批判者,非合法的手段で西ドイツへ移住した政治亡命者や求職者などが含まれている。とくに1989年には,東欧諸国の西ドイツ大使館へ政治亡命を求める者が,自由化の進んだハンガリー経由の避難民がふえて,10月のベルリンの壁開放まで続いた。西ドイツ政府が移住者を受け入れたことも,統一の促進要因になった。
【ベルリンの壁開放】東ドイツからの出国がふえる中で,1989年11月9日に,東西両ドイツ分断の象徴であるベルリンの壁が,東西ベルリン市民の手で崩壊され,ベルリンが開放された。流血を伴わない,市民の自由な行動の所産であった。
ベルリンの壁は,1961年8月15日,東ドイツ政府が建設した。それは,西ベルリンの周囲167.8キロメートルを囲み,東西両ドイツの国境を1,378.1キロメートルにわたって分断していた。東から西への移住の動きを阻止するために作られたが,これを越えようとした犠牲者が,解放までに,ベルリンの壁で80人,東西国境で112人でた。ベルリンの壁の解放は,両ドイツ間の移動を自由化して,統一を促進する契機となった。
【統一の経過】統一を実現したもう一つの背景は,東ドイツ市民の動向である。1989年の東欧の民主化の影響で,10月には自由と内政改革を求める市民の動きが高揚し,統一実現へ凝集されていった。ベルリンの壁開放後の12月には,人民議会が,憲法に規定する統一社会党(SED)の指導的役割を削除し,市民グループの主導下で円卓会議が開かれ,SED 支配体制からの解放が早まった。
11月末,西ドイツ首相は,ドイツとヨーロッパの分割を克服するための10項目を発表し,東西両ドイツが連邦国家へ統一されるまでの過程を明らかにした。1990年3月には,東ドイツで最初の自由選挙が行われ,人民議会ではキリスト教民主同盟(CDU)が圧勝した。4月には,両ドイツ政府間で,統一の前提である通貨同盟の7月実施が合意され,それをもとに,5月18日には,経済同盟,通貨同盟,社会同盟のための国家条約が調印されて,7月1日に発効した。両ドイツ・マルクの交換比率は1:1を原則とした。8月23日には,東ドイツ人民議会が,10月3日に西ドイツへの加入を決議し,これを受けて,両国は,8月31日,ドイツ統一の修復についての両ドイツ条約(統一条約)に調印した。条約は10月3日に発効し,新5州を加えた16州,人口7,811万人からなる新ドイツ連邦共和国が誕生した。首府はベルリン。同年2月,東ドイツに影響力をもつソ連のゴルバチョフ大統領が,ドイツ統一を認めたことも,統一の促進要因になった。
統一後の10月14日には新5州の州議会選挙が,12月2日には全ドイツ選挙が行われた。
【今後の課題】統一は果たしたが,国内では旧東ドイツ地域での経済格差・市場経済移行問題・膨大な失業者の存在など,対外的には,中欧第一の新国家として,EC とくにフランスとの関係,東欧諸国やソ連との関係をどう構築していくかなど,大きくて困難な課題を抱えている。