50音順    検 索

●ワット

ヨーロッパ 英国 AD1736 ハノーヴァー・ウィンザー朝

 1736〜1819 スコットランド生まれの技師。蒸気機関の決定的改良に成功し,イギリス産業革命期の技術体系の確立に中心的な役割を果たした。19歳でロンドンに行き器具製作職人の徒弟になったが,1年でグラスゴーに戻る。同市のギルドには入れてもらえなかったものの,大学が便宜を与えてくれた結果,大学への数学器機納入業者として自立。化学の講師 J. ブラックらと日ごろから議論を交わし,ニューコメン火力機関の改良を考えていたという。ニューコメン機関は,当時鉱山などの排水用としてかなり用いられていたが,能率が極めて悪かった上,排水以外の目的にはほとんど使えなかった。1764年,大学に教材として展示されていたニューコメン機関の修理を頼まれたのを機に決定的な改良計画を思いつく。シリンダーの温度をいちいち下げるために能率の悪かったニューコメン機関に対し,それをできるだけ高温のままに保つ工夫をしたワットの機関は,冷却機を別に取りつけることによって圧倒的に能率が高まり,1769年1月に特許を得た。

 ワットの蒸気機関の売り出しにまず協力したのは,同じスコットランド人でキャロン製鉄所の創設者であった J. ローバックであった。ワットの蒸気機関の経済性は極めて明白であったが,肝心のローバックが破産し,1768年以来の知人であったバーミンガムの鉄工業者 M. ボルトンがローバックに代わるスポンサーとなった。有名なソホ工場の所有者であったボルトンの経営手腕もあって,ボルトン=ワット商会は成功し,特許が25年間延長された1775年ごろには,ワットもバーミンガムに移り住む。

 しかし,ワットの蒸気機関が工業化を決定的に推し進め,世界史の大転換を生む原動力と言えるほどの影響をもち得たのは,1781年に彼が得た第二の特許があったからである。この特許は,要するに蒸気機関のピストンの運動を回転運動に変えるクランクの装置に関するものだが,この発明によって鉱山の排水用にしか使われなかった蒸気機関が,紡績機や蒸気船蒸気機関車などに転用される可能性が生じたのである。実際にワットの機関が初めて紡績機に取り付けられたのは,1785年のことで,この結果,紡績業は水力の限界にとらわれることなく立地し得るようになり,大工業都市が出現する。

 一般に産業革命期の大発明家は高等教育を受けた上流人ではなく,現場で直接職人として働いていた者が多く,発明そのものも理論よりは実際の経験をもとに実験を重ねて達成された。ワットの場合も基本的には同様だが,大学の理論家たちからの刺激を受けることができた点で幸運であったとも言える。その背景としては,アダム=スミスを初め多くの優れた学者が輩出し,しかも極めて開放的であったスコットランド知識人層の活動が挙げられる。また,産業革命期の大発明家で,企業活動にも成功した人はほとんどいないと言われる――アークライトは例外だが,彼の場合は発明そのものが本人のものか否か疑義がある――が,この点でもワットは,自らは経営面にタッチしなかったとはいえボルトンの協力を得て大成功を収めたのは幸運であった。バーミンガムに近いウェールズの炭坑や鉱山では,1783年までには,旧式のニューコメン機関は1台しか残っていないと言われるほどワットの機関は急速に普及したのである。晩年のワットは,1800年に商会の権利を息子に譲り,バーミンガム近郊のヒースフィールドで安寧な余生を送った。蒸気機関の他にもワットが手を染めた分野は多く,とくに青年時代にはスコットランド各地の運河や港湾の工事を手がけた。なお今も用いられている「馬力」ということばは,ワットとボルトンが使い始めたもので,電力の単位である「ワット」は彼の名前をとったものである。

〔参考文献〕角山栄『産業革命の群像』1971,清水書院

J. G. クラウザー,鎮目恭夫訳『産業革命期の科学者たち』1964,岩波書店

01