50音順    検 索

●ワシントン会議 ワシントンかいぎ

アジア 日本 AD1921 大正時代

 アメリカ大統領ハーディングの提唱により,1921〜1922年(大正10〜大正11)に開かれた国際会議。主要国間の軍備縮小を決め,アジア・太平洋地域における列強間の関係を調整し,いわゆるワシントン体制を形成せしめた。

【会議の前提】第一次世界大戦中,極東における列強の勢力関係は大きく変化したが,なかでも日本の中国への勢力拡張は顕著であった。すなわち,日本は連合国側に参戦することによってドイツの租借地を占領し,21カ条要求により中国に広範な権益を保持したのである。大戦中は介入する余力がなく,石井-ランシング協定で日本の権益を認めざるを得なかったアメリカは,戦後,日本の中国支配阻止に動き始めた。一方,イギリスは日英同盟を廃止し,それに代わって極東における新しい国際体制をつくる希望を抱いており,国際会議開催の意向のあることをアメリカに伝えていた。また,戦後,日米間で激しく行われた建艦競争は両国民に多大な負担をかけ,その上,戦後不況もあって軍備縮小を求める国際世論も高まってきた。このような情報下に,アメリカ大統領ハーディングは関係各国代表をワシントンに招集したのである。

【会議の推移】会議への参加国は,軍備制限問題に関してはアメリカ・イギリス・フランス・イタリア・日本の五カ国であり,アジア・太平洋問題に関しては,さらに中国・ベルギー・オランダ・ポルトガルが加わった。日本の全権は加藤友三郎・徳川家達・幣原喜重郎である。会議は1921年11月12日から1922年2月6日まで開かれたが,冒頭,アメリカ国務長官ヒューズは大胆な海軍軍備制限を提案し,各国の論議が沸騰した。その結果,1921年12月に四カ国条約日英同盟の項参照),1922年2月には九カ国条約海軍軍縮条約が成立したのである。

海軍軍縮条約】ヒューズ案はアメリカ・イギリス・日本の主力艦保有比率を5:5:3とするものであったが,これに対して日本は対米7割を主張して反発した。しかし,イギリス全権バルフォアがヒューズ案を全面的に支持し,日本は孤立したため加藤首席全権は受諾を決意した。交渉が決裂し建艦競争が続けば日本の財政は破綻すると考えたからである。かくして締結された海軍軍縮条約の内容は次のごとくである。[1]アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアの主力艦保有比率は,5:5:3:1.67:1.67とする。[2]この結果,保有すべき主力艦の隻数と t 数は,アメリカ18隻525,000t,イギリス20隻581,200t,日本10隻313,000t とする。[3]今後10カ年間,新主力艦の建造を中止する。この条約について,日本国内では不満の声も強かったが,当時は民主主義・自由主義の風潮が広まっていたこともあって,反政府的世論が高まることはなかった。

【会議の意義】ワシントン会議により形成された体制は,ヨーロッパのヴェルサイユ体制と並んで,第一次世界大戦後の国際秩序を確立することになった。しかも,この会議を主催し指導したアメリカは外交的勝利を収め,国際的指導者の地位についた。しかし反面,このワシントン体制は東アジア諸地域の植民地・半植民地状態を改善するものではなく,むしろ列強による植民地主義体制の再編成を意味するものであった。そのため,中国民族・朝鮮民族などはこの結果に大いに失望し,新たに激しい民族革命運動を展開していった。