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●ワシントン, G.

北アメリカ アメリカ合衆国 AD1732 

 1732〜1799(在任1789〜1797)アメリカ合衆国初代大統領。“建国の父”として国民に称えられている。

【ヴァージニアの農場主・軍人】17世紀にヴァージニアに移住したイギリス人の家系。農場主の父と兄から教育を受け,初め測量技師として働く。1752年死亡した兄からマウント=ヴァーノンの農場を受け継いだ。翌年ヴァージニア民兵軍の少佐として,オハイオ渓谷に進出したフランス軍に撤退を要求する任務を帯び,長い困難な旅にのぼった。撤退要求は拒否されたがこの旅の報告書で注目をひいた。1774年,オハイオ河の分岐点に砦を築いたフランス軍を駆逐するため出動したが,敗れた。翌1755年からのフレンチ-インディアン戦争(1756年から七年戦争)で,ブラドック指揮のイギリス軍を全滅から救う功を立て,ヴァージニア民兵軍司令官に任じられて,わずかな兵力で広い辺境の防衛に当たった。1758年に司令官を辞し,翌年金持ちの未亡人マーサ=カーティスと結婚,マウント=ヴァーノンの農場経営に努めたが,タバコ生産の行き詰りに苦しみ,西部における土地投機事業に力を注いだ。この間,1759年からヴァージニア下院に議席を得,彼自身の土地投機事業をも挫折させた本国の植民地政策への反発を強めた。印紙条令(1765)に際しては,〈他人のポケットに,同意なしに手を突込む権利はない〉と論じた。

【大陸軍総司令官】1774年大陸会議代表に選ばれ,1775年独立戦争の開始とともに,第2回大陸会議によって大陸軍総司令官に任命された。1776年,彼の軍隊はイギリス軍をボストンから撤退させたが,渡来した大量のイギリス軍との戦闘でニューヨークを追われ,ニュージャージー,さらにペンシルヴァニアに後退した。未熟な兵員・劣悪の補給・大陸会議の不適切な指令に苦しみながら,ともかくも軍隊を維持して戦い続けたが,1777〜1778年冬には,ヴァレー=フォージで惨たんたる野営を経験し,彼の解任を謀る陰謀にすら直面した。しかし以後彼の軍隊は強化され,米仏同盟(1778)によってフランス軍も来援した。1781年秋,米仏連合軍を率いてヨークタウンを包囲し,英軍8,000人を降伏させて独立戦争の成功を決定づけた。1783年講和成立とともに総司令官を辞し農場に戻った。

【初代合衆国大統領】農場再建に腐心しつつも,西部開発に関心を持ち続け,また1785年,バージニア-メリーランド間の紛争解決のためマウント=ヴァーノン会議を催すなど,合衆国のより強固な統一を願望した。1786年アナポリス会議に出席,さらに翌年フィラデルフィア憲法制定会議の議長を務め,その威信によって合衆国憲法の成立を助けた。1789年大統領選挙人の全員一致の投票で初代大統領に選ばれ,1792年にも再選された。大統領としては,概して財務長官ハミルトンの財政政策を支持したが,強まってきたフェデラリストレパブリカンの党派対立の調整に苦慮した。1794年にはペンシルヴァニア西部農民の反連邦税暴動(ウィスキー反乱)を大軍を率いて四散させ,またオハイオ地方のインディアンを大敗させるなど,連邦政府の権威を高めるとともに西部進出を加速した。フランス革命戦争に際しては中立の維持に努めた(中立宣言,1794)。国民の間で不評であったイギリスとのジェイ条約(1794)の成立も彼の威信によるところが大きい。1796年三選の機会を迎えたが,共和政治の発達に不適と考えて引退を決意し,「告別の辞」を発表した。大統領二期以内の慣行は以後長く不文律となり,また政党抗争を戒めるとともに,外国列強との“恒久的同盟”・国際紛争への介入の危険を警告した「告別の辞」は,合衆国の対外政策の基本原理となった。引退後,対仏関係の悪化で再度1798年,軍司令官に任じられたが実務につかないまま病死した。政党の役割の無理解,民衆の政治的台頭に警戒的であった点などが批判されるが,終始自ら権力や栄達を求めず,不屈の精神をもって,あくまで誠実に自己の責務を果たした人柄は長く国民の崇敬を集めており,歴史家の評価も歴代大統領中一貫して最も高い。

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