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●脇街道(脇往還) わきかいどう

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 広く知られている五街道にはそれそれ付属の街道があり,佐屋路(熱田=宮から桑名までの海路を避けて陸路佐屋に出て桑名に至る)・美濃路(宮から垂井に至る)例幣使街道・壬生通・水戸佐倉道・本坂通(浜名湖の北を迂回する)などがこれであるが,上述道中奉行支配の五街道とその付属街道以外の主要街道を脇往還と呼び,勘定奉行の支配下にあった。脇街道でも宿駅の設けがあり,人馬の継立も行い賃銭も定まっていたが,それぞれ重要度・利用度に相当の差があった。主要な脇往還としては,伊勢路は東海道四日市から分岐して神戸・山田を経て伊勢神宮に達する七宿があり,例年の伊勢例幣使の通行を初め,江戸後半期庶民の参詣者の増加とともににぎわった。中国路は一名山陽道で,大坂から中国地方を横断して下関へ,さらに海を渡って大里(今北九州市の一部,門司の西)から小倉に向かうものであるが,備前・備中・備後などでは現在の国道路線よりも多少山手を通っていた箇所が少なくない。尼崎から大里まで五十宿。佐渡路は江戸から佐渡への道で三道があり,江戸幕府が佐渡金山を重視して佐渡奉行を置き,幕府役人の往来・金荷物の輸送・佐渡渡り人足(罪人としての金山労働者)の輸送路とし重要視した。三道のうちの一は,奥州道中の白河から越後の寺泊に出てそこから乗船し佐渡へ(会津道)三十一宿。二は中山道高崎から分かれて三国峠を越え,越後の出雲崎に出る(三国街道)二十五宿。三は中山道追分宿から分かれて出雲崎に行く北国街道の二十八宿があった。二の道は三国峠の難所を越えたが越後の大名も越えた。以上のほか長崎路は中国路と連絡し,小倉から筑前の六宿を経て長崎に達するもの(オランダの使節団カピタン以下の一行もこの道筋を利用している)。北陸路は中山道の関ケ原から加賀の立花に至るもの,伊賀越道中は東海道の関から加太・島ケ原・加茂・奈良に至るもの。松前道は奥州道中の白河から北へ,郡山・仙台・盛岡を経て箱館に至る街道。羽州街道は仙台領の桑折から山形・新圧・湯沢を経て青森港に達するものなどが重要であり,他にも東海道の土山から中山道の愛知川を経て,高宮から多賀神社に至る御代参街道などもあり,その他,近江国琵琶湖北西岸の今津から若狭の小浜に達する若狭街道などもあるが,それぞれの街道筋を領する藩領関係などの影響からか五街道のごとき整然たる組織ではなく,本宿ではなく「間の宿」的なものも多かった。しかし脇往還であったとはいえ,それぞれの地方での主要幹線であったことは,今日の陸上交道路の系統から見ても一目瞭然である。