●和菓子 わがし
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日本固有の,または日本風の菓子。いわゆる和菓子が形成されるのは近世初頭のことであるが,餅や飴などは古墳時代にまでさかのぼると考えられ,日本の菓子は遣唐使のもたらした唐菓子・禅とともに渡来した点心(てんしん)の菓子・キリシタン宣教師によって伝えられた南蛮菓子という三つの大きな影響を受け,茶の湯の興隆に促され,元禄のころには現代の和菓子とあまり変わらぬものがつくられるようになった。なお,明治初年以来伝えられた洋菓子は,大正のなかごろからようやく一般化し,餡パンに代表されるような和洋折衷の菓子がつくられ,現在では生産量の上から見るとケーキ・クッキー・チョコレートなどの洋菓子が和菓子をおさえている。【くだもの・餅】垂仁天皇の命により,田道間守(たじまもり)が常世(とこよ)の国へとりにいった非時香果(ときじくのかぐのこのみ)つまり橘が菓子の始まりと言われるように,奈良時代の菓子は「くだもの」をさすことばであった。職員令によれば大膳職のもとにある主菓餅(くだもののつかさ)は,菓子(くだもの)と餅(もちひ)のことを司るとあり,『延喜式』に見える諸国貢進菓子には,楊梅子(やまもも)・平栗子・甘栗・椎子(しいの実)・梨子・覆盆子(いちご)などと甘味料である甘葛煎(あまずらせん)が挙げられている。餅は白鳥に化したという伝説があるように白餅が一般的であるが,738年(天平10)の「淡路国正税帳」には大豆餅・小豆餅・煎餅・呉床餅の名が見られる。主菓餅の司った菓子の姿は『類聚雑要抄』などに図示されたものもあり,奈良の春日大社はそれらの菓子を盛った神饌台が今に伝えられ,干柿と勝栗を添える正月の鏡餅にもその名残を止めている。
【唐菓子】鑑真のもたらしたもののなかに砂糖があったと言われ,奈良時代には中国の菓子の製法も伝えられていたと考えられるが,唐菓子(からくだもの)と呼ばれたそれらの名称が明らかになるのは平安時代に入ってからである。しかし,すでに南北朝時代の後醍醐天皇が王朝の朝儀を復興しようとしたとき,「その名はあれど,その姿いづれともわきがたし」と言われておりこの実態はつかみがたい。
【点心の菓子】鎌倉から室町にかけての禅の伝来は,新しい宗教・芸術の流入にとどまらず,栄西のもたらした喫茶の法とそれに伴う食生活に大きな影響を与えた。点心は空心(すきばら)に少食を点ずるという禅語で,室町時代なかごろの『尺素往来』には,鶏鮮羹(けいせんかん)・猪羹(ちょかん)・海老羹・白魚羹・甚鼈羹(しんべっかん)・乳餅(にゅゆひん)・巻餅(けんひん)・水晶包子(ほうず)・砂糖饅頭・索麺(そうめん)・截麺(きりめん)・善哉(ぜんざい)などが列挙されている。点心には麺類などの料理に属するものもあるが,まず羹の多いのが注目される。猪羹や羊羹は文字通りに解釈すれば,猪や羊の羹(あつもの)となるが,江戸時代の書物に〈赤豆を煮て皮を去り,水を絞り,粉を用て麺子に和し,砂糖の煎汁をもって之にそそぎ,甑(こしき)にて蒸す〉とあるように,早い時期のものと,蒸羊羹のようなものであったと考えられる。鼈羹は手足を残し甲より食い,海老羹は髯を残して食うとあり,その名称は多くその形状によるものであろう。日本の菓子の代名詞である饅頭もここに見られる。ここでわざわざ砂糖饅頭と呼ばれているように,本来は肉や野菜を入れたもので,室町中期を過ぎると饅頭や心太(ところてん)が町で売られるようになり,『七十一番職人歌合』では調菜(ちょうさい)が「砂糖饅頭,菜饅頭いずれもよくむして候」と饅頭を売っている。
【南蛮菓子】『甫庵太閣記』によれば,キリシタンは上戸には葡萄酒などを飲ませ,下戸には「かすていら・ぼうる・かるめひる・あるへい糖・こんべい糖」などをもてなしたという。金平糖もカステラも江戸時代を通し,南蛮菓子として喜ばれているが,それは桃山時代からしだいに発展したものではなく,元禄前後の町人社会で再興されたもののようである。西鶴は金平糖の製法を詳しく述べ,これは〈南京より渡せし菓子〉であると言い,キリシタンの弾圧によって菓子の製法も途絶え,中国から改めて伝えられるものもあったと考えられる。
【和菓子の成立】唐菓子以来,蒸す・焼く・揚げるといった製法から,砂糖・餡・卵に至るまで,桃山時代には和菓子に関する基本的な製法や材料はほとんど出揃った。ちょうどそのころは茶の湯の興隆のときでもあり,和菓子はそのなかでしだいに形を整えてくる。1590年(天正18)8月から翌年の正月にかけて行われた茶会の記録『利休百回忌』に見る菓子は,ふのやき72・栗55・椎葺15・いりかや15・こぶ7・焼餅豆腐湯葉各5などが見え,一種の場合はほとんどなく,三,四種類が出されている。麸焼(ふのやき)は小麦粉を水でねり,焼鍋にのばし,焼けた片面に味噌をぬって巻いたものと言われ,今の味噌松風を薄くして巻いたようなものと考えられる。利休前後の菓子はこれに似たものであるが,寛永期の茶会記には〈ヨモギ餅,アン入テ〉〈栗粉餅,砂糖カカラズ〉などと見え,アンコ餅・キナコ餅・ウズラヤキ・サトウチマキなど菓子の種類の増えてきたことが窺われる。1683年(天和3)江戸の京菓子司桔梗屋の菓子の引札には,幾夜の友・花のつゆ・ちどり・さざなみなど優雅な銘がみえ,1693年(元禄6)刊の『男重宝記』には蒸菓子百八十余種を図入りで挙げている。それには〈三吉野・春霞・古今餅・歌がるた・花車〉などの銘がつけられ,〈三吉野 中やうかん 山のいも入,わき白ながし物,角〉〈茄子餅,上うゐらうもち,中へあん入〉などとその製法も記され,現代の和菓子とほとんど同じ姿をしていたことが知られる。
【和菓子の広がり】元禄の町人社会ではぐくまれ,その形を整えた和菓子は,1718年(享保3)『諸国名物御前菓子秘伝抄』,続いて『古今名物御前菓子図式』などの菓子書が出版されるほどとなり,多くの写本も作られた。1839年(天保10)にはその集大成ともいうべき蒸菓子・干菓子など二百種に及ぶ製法を記した図入りの『古今新製菓子大全』が刊行された。上菓子・京菓子などと呼ばれた茶の湯の菓子に対し,一般庶民の親しむ菓子は,早くから社寺門前の茶店などで売られていた。1638年(寛永15)の『毛吹草』には醒井分餅(ヘぎもち)・愛宕粽(あたごちまき)・御手洗団子(みたらしだんご)・稲荷染団子・摂津住吉御祓団子などが挙げられ,今も京都今宮神社門前のあぶり餅・北野神社門前の粟餅などにその名残を止めている。18世紀から19世紀にかけて『東海道中膝栗毛』や広重の「東海道五十三次」に見る旅の発展は街道の菓子を発展させ,茶の湯を好む大名の城下町,金沢・松江・名古屋などで名物菓子がつくられるようになった。1805年(文化2)刊『早見道中記』は,川崎の〈まんぢうめいぶつ有〉に始まり,大磯の粟餅・吉原の栗粉餅・府中では今の安倍川餅〈さとうもちめいぶつなり〉などと書き,菓子も旅の楽しみのひとつであったことが窺われる。明治維新によってさまざまな西洋文明が伝えられるが,洋菓子は1875年(明治8)東京の京橋南鍋町米津フウゲツドウ※注1※によって始められたと言われ,ビスケット・ドロップなどがつくられた。また,1899年には本格的な洋菓子の会社,森永製菓が設立される。洋菓子は1923年(大正12)の関東大震災ころより広く大衆化し,第二次世界大戦後,和葉子をしのぐ発展ぶりを見せた。