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●和歌 わか

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 日本文学の韻文の代表的・中心的ジャンル。西洋や中国の韻文では音声の高低や長短・アクセントの強弱・所定の押韻などによって語調を整えるが,和歌は音節数の排列によって語調を整えた定型詩である。たとえば『万葉集』に見られる長歌は〈大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かもめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は〉と5・7・5・7の音節を繰り返し,短歌は〈春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天の香具山〉と5・7・5・7・7の5句,旋頭歌(せどうか)は〈ももしきの 大宮人の 踏みし跡所 沖つ波 来寄せざりせば 失せざらましを〉と5・7・7・5・7,7の6句から成るように,各句の音節数が原則的に一定している。奈良時代以後,長歌・旋頭歌は詠まれなくなり,和歌といえば短歌をさすようになった。

【語義と起源】和歌は倭歌とも書く。これは『古今和歌集』の真名序冒頭の〈夫和歌者……〉とあるのを仮名序では〈やまとうたは……〉とあるように,中国の詩すなわち唐詩(からうた)に対する倭歌(やまとうた)の意味であり国歌とも言う。いずれの民族の詩歌の起源と同様,和歌も,祭祀や労働や恋愛の場において節をつけて歌い合った不定型な口誦から長歌・短歌・旋頭歌の定型詩へ発展したと想定される。その過程には,春や秋に男女が野や山に集まって飲食や舞踏を行うにおける歌謡や,本方と末方の座に分かれて歌い合う神楽歌(かぐらうた)の原型となる歌謡があった。『古事記』や『日本書紀』で最初の和歌と言われる素戔嗚尊(すさのおのみこと)の歌〈八雲立つ出雲八重垣妻ごみに 八重垣作るその八重垣を〉も,本来は民間で男女が歌い合った歌謡の一つであったと考えられている。

【実感を詠む『万葉集』】不定型口誦から定型詩へと発展した和歌は,現存するわが国最古の歌集『万葉集』にまとめられた。この編者や成立年次は不明。収集歌四千五百余首は4,5世紀の仁徳天皇の代から奈良時代中期まで4〜5世紀間にわたり,仁徳天皇皇后や聖徳太子の伝承歌・額田王柿本人麻呂たち宮廷歌人の歌・東歌防人の歌など作者も広範囲に及ぶ。当然時代によって作風には相違があるが,『万葉集』の包括的な特徴としては,雄大で素朴で感動的な歌風が指摘されている。それは見たもの・感じたものを率直に具象的に表現しようとする詠歌態度に基づく。たとえば〈東の野にかぎろひの立つ見えて かへり見すれば月傾きぬ 柿本人麻呂〉〈憶良らは今はまからむ子泣くらむ そのかの母も吾を待つらむぞ 山上憶良〉〈信濃道は今の墾道刈りばねに 足踏ましむな沓はけわが背 東歌〉〈父母が頭かきなで幸くあれて 言ひしけとばぜ忘れかねつる 防人の歌〉など,自然を詠むにしても思いを述べるにしても,抑えず飾らず自己の実感を詠むのが『万葉集』の主流であった。

【美を想像する二十一代集】奈良時代から平安時代前期は,政治において律令政治が行われたように,文学史上でも中国の漢詩文が隆盛を極め,『凌雲集』や『文華秀麗集』など勅撰漢詩集が編集された。しかし唐の弱体化・遣唐使の廃止に伴い国風文化が復興,914年(延喜4)ごろ成立の『古今和歌集』を初めとして1439年(永享11)まで二十一代集と呼ばれる勅撰集が編集された。二十一代集の集名と成立年次は,『古今和歌集』914年ごろ・『後撰和歌集』未詳・『拾遺和歌集』1005年(寛弘2)ごろ(以上三代集),『後拾遺和歌集』1086年(応徳3)・『金葉和歌集』1126年(大治1)・『詞花和歌集』1151年(仁平1)・『千載和歌集』1187年(文治3)・『新古今和歌集』1205年(元久2)(以上八代集),『新勅撰和歌集』1235年(嘉禎1)(以下十三代集),『続後撰和歌集』1251年(建長3)・『続古今和歌集』1265年(文永2)・『続拾遺和歌集』1278年(弘安1)・『新後撰和歌集』1303年(嘉元1)・『玉葉和歌集』1313年(正和2)・『続千載和歌集』1320年(元応2)・『続後拾遺和歌集』1326年(嘉暦1)・『風雅和歌集』1349年(正平4)・『新千載和歌集』1359年(正平14・延文4)・『新拾遺和歌集』1364年(正平19・貞治3)・『新後拾遺和歌集』1384年(元中1・至徳1)・『新続古今和歌集』1439年(永享11)である。これら二十一代集を初め,平安時代から江戸時代までの主流となる詠歌態度は,前の『万葉集』とは異なり,自己の実感を抑え想像した世界をいかに美しく詠むかにあった。そのため洗練されたことば・巧緻な技法がつねに求められた。定家に仮託した偽書の一つ『桐火桶』という歌論書に,定家の父俊成が冬の夜のかすかな灯火のなかで桐火桶を抱えて〈我こころいかにせよとて時鳥 雲間の月のかけに鳴くらむ〉と詠んだという逸話がある。偽書とはいえ,この逸話は当時の詠歌態度をよく表している。冬の寒夜に一室に閉じこもった俊成には月も見えず,ほととぎすの声も聞えない。すべて想像の世界である。

【『古今和歌集』と『新古今和歌集』】二十一代集のうち『古今和歌集』『新古今和歌集』は『万葉集』とともにわが国の代表的な歌集であり,それぞれに歌風がある。『古今和歌集』には〈袖ひぢてむすびし水の凍れるを 春立つけふの風や解くらむ 紀貫之〉〈浅緑糸よりかけて白露を 珠にも貫ける春の柳か 遍昭〉〈さつき待つ花たちばなの香をかげば 昔の人の袖の香ぞする 読人不知〉〈思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせばさめざらましを 小野小町〉など自然や恋を理知的な趣向や見立てで婉曲に詠み,洗練された優雅な表現に特徴がある。『新古今和歌集』には〈風通ふ寝ざめの袖の花の香に かをる枕の春の夜の夢 俊成女〉〈暮れてゆく春の湊は知らねども 露に落つる宇治の柴舟 寂蓮〉〈津の国の難波の春は夢なれや 葦の枯れ葉に風渡るなり 西行〉〈白砂の袖の別れに露落ちて 身にしむ色の秋風ぞ吹く 藤原定家〉など象徴的な表現や本歌取りの技法を用い,想像した世界を絵画のように物語のように美しく謳い上げる。また〈見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ 藤原定家〉ほか〈三夕の歌〉など幽玄の追求は,仏教的無常観と相まって,わび・さびの中世的美意識の先駆となった。

歌会・歌合せ・歌論・家集】平安時代以後の想像した世界を詠む詠歌態度は,荘園経済の発達に伴う貴族文化の展開と深く関連する。貴族文化の下における和歌は,都において,宮廷や貴族の邸宅において詠まれるものとなり歌会が発達した。歌会には歌題が決められ,参加者は歌題に従って歌を詠む。歌題には予め決められた兼題と,当日になって籤を引く探題とがある。前の『桐火桶』の逸話も,俊成が〈ほととぎす〉という兼題を考えていたのである。歌会は歌合せの形式で行われることが多かった。歌合せは左右に分かれた参加者の歌を左右一首ずつ歌題に従って組み合わせ,それぞれどちらが優れているか勝負を判定したものである。判定には判者がおりまた参加者で行う衆議判があった。判定に当たっては勝負の理由を明確にしなければならない。このため判詞が書かれたが,これは歌論の発達に影響を与えた。歌論は和歌に関する理論・評論であり,『古今和歌集』ほかの序文も歌論の一つである。有名な歌論には,藤原公任『和歌九品』・源俊頼『俊頼髄脳』・藤原俊成古来風体抄』・藤原定家近代秀歌』・正徹『正徹物語』・荷田在満『国歌八論』・本居宣長『石上私淑言』などがある。平安時代以来の和歌の隆盛は,勅撰集のみならず『古今和歌六帖』『夫木和歌抄』『新葉集』など数多くの歌集や,家集または私家集と言われる個人歌集を次々に生んだ。六家集と呼ばれる藤原俊成『長秋詠藻』・藤原良経『秋篠月清集』・慈円『拾玉集』・西行『山家集』・藤原定家『拾遺愚草』・藤原家隆『壬二集』初め,中世より現代まで個人歌集の数はまことに多い。

【和歌の周辺】和歌と同じ形式をもち,滑稽を旨とするものに狂歌または俳諧歌がある。古くは『万葉集』の戯笑歌,『古今和歌集』の俳諧歌があるが,鎌倉時代以後『東北院職人歌合』や『酒百首』がつくられ,公家や武士・連歌師たちも紀行や日記に書き留めた。また為政者を批判する落書(らくしょ)にも狂歌は詠まれた。これは和歌と違って伝統に束縛されることなく自由に詠めるため,世相をよく反映している。本格的に詠まれるのは江戸時代になってからで,とくに天明期を中心に隆盛を極め,四方赤良・朱楽菅江・宿屋飯盛・鹿都部真顔らが輩出した。和歌より派生したジャンルに連歌がある。連歌は短歌を5・7・5・と7・7の上句と下句に分けて二人して詠むものであったが,鎌倉時代以後は100句続ける百韻連歌となり,室町時代には和歌を凌ぐほどに流行し,心敬・宗祇ら連歌師が活躍した。江戸時代になると,連歌は衰退し代わって俳諧連句が盛んになった。和歌の関連で今ひとつ注目すべきは歌物語である。平安時代前期の物語文学ではあるが,和歌を中心に短編の物語が記され,『伊勢物語』『平中物語』『大和物語』などが成立した。

【近世和歌から近代短歌ヘ】二十一代集以後,勅撰集の編集はないが,歌集・家集が盛んにつくられる一方,源実朝などの例を除いては貴族社会の独占であった和歌も,武士や連歌師も家集をもち,歌論を書く者も現れた。さらに江戸時代になると国学者の歌が新しい傾向を示し,『万葉集』の復活を説く賀茂真淵や『古今集』の調べを重視する香川景樹ら,これまでの平安時代以来の和歌の伝統を飛躍する歌人が生まれた。〈大魚つる相模の海の夕なぎに みだれていづる海士小舟かも 賀茂真淵〉〈隅田川夕潮今やさしくらむ

もとの州崎にかへる白浪 香川景樹〉〈道のべのすみれつみつつ鉢の子を 忘れてぞ来しその鉢の子を 良寛〉こうした新しい歌風は,明治時代になり近代化の思潮のもとにさらに発展する。1898年(明治31)正岡子規は『歌よみに与ふる書』を発表し,写生・写実を旨とする近代短歌を主張し,与謝野鉄幹・晶子は浪漫的・象徴的な歌を詠んだ。〈くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の 針やはらかに春雨のふる 正岡子規〉〈なにとなく君に待たるるここちして 出でし花野の夕月夜かな 与謝野晶子〉〈葛の花踏みしだかれて色あたらし この山道を行きし人あり 釈迢空〉などがある。このように近代短歌は個人の自由を謳歌するところに特徴があると言えよう。