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●ワイマール共和国 ワイマールきょうわこく

ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD1918 ドイツ帝国

 1918年のいわゆる11月革命によって成立し,1933年のヒトラー政権の出現によって終止符を打たれた約14年間にわたるドイツ最初の共和国をさす。1919年にワイマールで開かれた国民議会でこの共和国の憲法(いわゆるワイマール憲法)が決められたことから,この呼び方は来ている。ワイマール憲法が当時の世界で最も民主的な憲法とされながら,この共和国が短命のうちにナチズムの前に崩壊したことのゆえに,その歴史は民主主義の問題を考える上で大いに示唆に富む。共和国の歴史はふつう三つの時期に区分される。

【初期 1918〜1923/1924年】共和国の成立とそれに続く混乱の時期。1918年11月に第一次世界大戦におけるドイツの軍事的敗北を契機に革命が勃発し,共和制が宣言されて帝制が崩壊する。革命は多数派社会民主党の主導権の下に議会主義の方向で収拾され,1919年にワイマールに国民議会が招集され,国民主権主義に立った憲法が成立する。社会民主党のエーベルトが初代大統領に就任し,政権は当初いわゆるワイマール連合によって担当された。だが,苛酷なヴェルサイユ条約の押しつけ・厳しい賠償取り立て・破局的なインフレーションの進行などにより政治・経済は混乱し,左右両翼からのクーデタや革命の試み,政府要人の暗殺などが相次ぐ。1920年の右翼によるカップ一揆もその一つである。1923年フランス・ベルギー両国軍隊によるルール占領により混乱はその極に達し,同年秋にはヒトラーによるミュンヘン一揆も起こった。

【安定期 1924〜1929年】共和国の束の間の安定の時期。1924年賠償に関してドーズ案が成立したことで大量の外資が流入し,経済は復興に向かう。この時期を代表する人物は外相シュトレーゼマンで,彼のもとでロカルノ条約の締結(1925),ドイツの国際連盟加入(1926)などに示される西方諸国との協調外交が展開される。ただし,ラパロ条約(1922)以来のソ連との関係もベルリン条約の締結(1926)によって持続された。この時期には左右の過激な勢力も影をひそめるが,1925年の大統領選挙で保守派のヒンデンブルクが当選したことは,共和派の弱さを示す。

【崩壊期 1929〜1933年】1929年の世界恐慌の勃発を契機に共和国が崩壊に向かった時期。1929年以降ドイツ経済の不況は急速に深刻化し,1932年ごろには600万以上の失業者を生み出すに至る。1930年3月には社会民主党のミュラーを首班とする大連合政府が失業保険問題をめぐる対立のために崩壊するが,これを最後に議会の多数派に基盤をおく政権は姿を消し,いわゆる大統領政府の時期に入る。すなわち,憲法第48条に規定された大統領の緊急権限に依拠した政治が行われるようになる。1930年3月以降政権を担当したブリューニングは,恐慌の克服と議会主義への復帰を意図するが,同年9月の国会選挙では群小政党の一つにすぎなかったナチスが第二党に躍進した。同党は1932年7月に行われたパーペン政権下での選挙では,三分の一の議席を得て第一党となり,他方で共産党の議席が伸びたこととも相まって,議会主議への復帰はますます困難となる。この間,1932年の大統領選挙ではヒンデンブルクヒトラーを抑えて再選されるが,彼の周辺では政治工作が渦まき,とくに国防軍を背景とするシュライヒャー将軍の政治への介入が強まる。1932年12月自ら首相となったシュライヒャーは,ナチスを分裂させて政権の安定を図ろうとするが失敗に終わり,舞台裏でのパーペンの工作によって1933年1月30日のヒトラー政権の誕生を迎えるに至る。ワイマール共和国を短命に終わらせた要因としては,国際環境の厳しさ・ワイマール憲法の欠陥・恐慌時の経済政策の失敗・大企業や大土地所有者の圧力・中間層の困窮と不安・官僚や国防軍の反共和制的姿勢など,さまざまなものを挙げることができる。

〔参考文献〕林健太郎『ワイマール共和国』1963,中央公論社

A.ローゼンベルク,吉田輝夫訳『ワイマール共和国史』1964,思想社