50音順    検 索

●倭 わ

アジア 日本 AD 

 日本の古称であったらしい。中国や朝鮮では日本を倭と称していた。中国では『山海(せんがい)経』の一節に,〈倭は燕に属す〉と見えるのを初見とするが,『後漢書』の「東夷伝」にも,〈倭は韓の東南大海中に在り。山島に依りて居をなす。凡そ百余国あり〉とし,57年(後漢光武帝・建武中元2)に,倭の奴国が朝貢し,光武帝がこの使節に印綬を賜ったと記している。福岡県博多湾頭に浮かぶ志賀島から出土したと言われる金印「委奴国王印」は,このときの印綬であると信ぜられている。文献によれば少なくとも1世紀ごろには倭という称呼は登場してくる。その後,『魏志』「倭人伝」に〈倭人は帯方の東南大海中に在り。…漢の時,朝見する者有り。今使訳通ずる所三十国〉などと記されるが,倭の称呼は7世紀初めの『隋書』にまで引き継がれる。『隋書』には〈倭国は百済・新羅の東西にあり〉と書かれている。朝鮮においても,日本を倭と称したことは,百済王から贈られた泰和4年銘の七枝刀に「倭王」とあり,有名な広開土王(好太王)碑にも〈倭,辛卯年,海を来り渡り〉とあることから窺えよう。日本の王も,自ら倭王と称して中国の南朝に朝貢した。だが7世紀代に入ると,日本では日出る処の国という意識が高まり,607年(推古15・隋の大業3)に,聖徳太子は,遣隋使小野妹子を派遣し隋に国書を呈して〈日出づる処の天子書を日没する処の天子に致す〉と記したという。隋の煬帝は,〈蛮夷の書無礼なる者有り,復たもって聞する勿れ〉と怒ったが,翌年には斐世清(はいせいせい)を派して国交を結んだ。隋が高句麗征討に手を焼いている最中であったことが,こうした結果を生んだと考えられる。『旧唐書』の時代に至ると,〈倭国は古の倭奴国なり〉としながら,〈日本国は倭国の別種なり。其の国,日辺に在るを以つて,故に日本を以つて名となす。或はいう。倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み,改めて日本となすと。或はいう。日本は旧小国倭国の地を併せりと〉と記している。いずれにせよ「日本」という国号が正式に採用されたのは,律令国家の確立に伴ってであろうと思われる。『釈日本紀』には,「公望私記」を引用して,〈大宝二年壬寅,唐の則天皇后長安二年に当る。続日本紀いう。此の歳正四位上民部卿粟田朝臣真人,遣唐持節使となる。唐暦にいう。此の歳,日本国,其の大臣朝臣真人を遣して万物を貢ず。日本国は,倭国の別名なり〉と述べ,〈大唐,日本と称するの濫觴,此に見ゆ〉としている。大宝2年という年は702年であるが,大宝1年には大宝律令が完成し,律令国家の基本法が制定されている。その「公式令」には,詔書式を掲げ,「明神御宇日本天皇詔旨」の称号が明示されている。これは,「義解」によると,〈大事を以つて,蕃国使に宣るの辞なり〉と注されるように,対外的な称号であった。ここに「日本」の国号が正式に用いられているが,その国号の成立期は律令時代であろう。ただ,先の『釈日本紀』にも,「延喜講記」を引き,〈隋の文帝,開皇中,入唐使小野妹子,倭号を改め,日本となす。然るに,隋皇,物理に暗く,遂に許さず。唐の武徳中に至り,初めて日本の号を号す。〉とあるので,日本においては,推古朝から日本の国号を採用したが,国際的に承認されていなかったというのが実情であろう。倭の語源説はいろいろ出されているが『釈日本紀』巻1には,〈或はいう。我を称える音を取りて,漢人,名とするところの字なり〉の説を掲げている。ただ「倭」の字には,『説文』に〈倭は順兒,人に从い委声〉とあり,人に柔順に従うの意があり,本居宣長などは,日本人が柔順で素直な性格を有するからこのように呼ばれたという説を出した。また「倭傀」と書けば,容姿の醜い女性をさす。『旧唐書』に雅ならざるをにくみて改称したというのは,これらの意を含んでいたからではないか。ただ「倭堕」という熟語は切り下げ髪の意であることは一応注目してよかろう。『魏志』「倭人伝」に倭人の風俗を掲げたなかに倭人は〈断髪文身〉とあるからである。

 ところで,倭という概念で呼ばれる地域は,いったいどのくらいの範囲であったろうか。『後漢書』に,〈韓の東南大海の中にあり〉とされ,百余国に分かれて群立する部族国家の集合と考えられたとしても,おそらく北九州あたりの日本人をさすか,あるいはこの地域の人々が自ら称していた名であったろう。光武帝に朝貢したのは,倭の奴国とすれば,明らかに奴は博多湾周辺の部族国家であったからである。交渉が頻繁に行われるようになると,日本への知識も深まり北九州の人々と同種族の人々もすべて倭人と呼ぶようになったものであろう。やがて部族国家間で一定の政治統合が行われるようになると,これを倭国という概念で把握するようになったと考えられる。『魏志』「倭人伝」には,〈郡(帯方郡)より,倭に至る〉路順を記しているが,対馬国・一大国(一支国)・末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国を掲げた後,〈斯馬国・己百支国・伊邪国・郡支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇国・鬼国・爲吾国・鬼怒国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国〉の21カ国を列挙している。邪馬台国の位置をめぐって,江戸時代以降,盛んに論争が行われて決着を見ないが,少なくとも,対馬・一支(大国)・末盧・伊都・奴国あたりは対馬・壱岐・松羅・怡土・那(灘)に比定され,北九州周辺の国家群であったことは事実である。これからしても倭はもともと北九州の一地域をさすものであったと見なしてよかろう。それが漸次拡大されやがて広く日本本土に及ぶようになった。大和政権が確立されると,その統治下にある範囲が倭国とされるようになるが,一方,北九州の地域が本来,「倭」であったとすれば,大和政権は倭の別種であるとする認識も存在したようである。それが『旧唐書』に言う,〈日本国は,倭国の別種なり〉ということばに象徴される意識ではなかろうか。『旧唐書』には,さらに〈或はいう。日本は,旧小国,倭国の地を併せたりと〉とも述べている。其の国,日辺にあるをもって,日本を名としたというのは,元来は,西方の北九州,つまり「倭」に対し,大和が東方の国であるという主張からおこったものかも知れない。太陽の昇る方を聖地という信仰は,太陽神信仰の高揚とともに盛んになるが,大和政権は全国征覇を成し遂げるとともに,自らの権威を誇示するために“日出る処の国”の意識を宣揚していったのではないか。それがやがて対外的に用いられたのである。そして,〈倭王は天をもつて兄となし,日を以つて弟となす〉と称したと言われるように,天皇が日神と血脈を同じくする存在であると唱えているのである。推古女帝の夫であった敏達天皇の時代に,日祀部(ひまつりべ)が置れていることも注目されてよかろう。帯日彦(たりしひこ)は,日の光が地方に垂る,つまり照であり,これの神格化が天照(あまてらす)であるとすれば,帯日彦は,天照と同義であると言わなければなるまい。天照大神が皇祖神として,畿内の日出る地域,伊勢に祀られるのもこの認識によるものと考えられる。対外意識の強い日本の初めての正史に『日本書紀』の名称を採用したのは,天武天皇伊勢信仰と切り離して考えられないだろう。もちろん,倭国という名称は忘れ去られたわけではない。ヤマトの名称に大倭や大和をことさら当てるのもそのためであろう。中世に入っても,外国において日本を蔑視するときはあえて倭と呼んだことは,「倭寇」などからも窺えるであろう。以上のように,「倭」の概念も時代とともに変遷し,現在では全く死語と化しているが,少なくとも大化前代の日本の状態を明らかにする名称だけに,今後も,「倭」をめぐる問題は究明さるべきであろう。

〔参考文献〕和田清・石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』

和田清・石原道博編訳『旧唐書倭国日本伝,宋書日本伝,元史日本伝』

卜部兼方『釈日本紀