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●ロンドン

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【ローマ時代と中世初期】ロンドンは,ブリテン島の中では肥沃な南東部にあってテムズ河口に近く,大陸とも往来が容易であったから,古くからこの島の最大の要衝として発達した。カエサルによる来寇の後,1世紀から属州ブリタニアの本格的経営に乗り出したローマ人も,この地をロンディニウムと名づけて中心拠点に選んだ。ロンディニウムは,61年に先住ブリトン人の一派イケニ族の女性族長ボアディケアの襲撃を受け灰燼に帰したが,そのころはまだ周囲の市壁は築かれていなかった。しかし,その後町は再建され,市壁や市門も設けられて人口は数万に達した。ところが,4世紀にローマ人がこの島から撤退するに及んでロンドンの繁栄は急速に衰え人口も減少した。それでも,やがて来住したアングロ=サクソン人がやはりロンドンの位置の重要性に気づいたため,6世紀ころには繁栄を取りもどした。また6世紀末にはイングランドにカトリック教が伝えられ,まもなくロンドンにもセント=ポール聖堂を本拠とする司教座が設けられた。その後,9世紀にはデーン人が来襲してロンドンを焼き,10世紀には大火が発生するなど災害は絶えなかったが,それでもロンドンは着実に発展を続け,11世紀にエドワード聖証王が西隣のウェストミンスターに聖堂と宮殿を造営するに及んで,その地位は不動のものになった。

【中世】1066年ノルマンディーから来寇してイングランドの王になったウィリアム征服王は,手強いロンドン市民を威圧する必要があると考え,市壁の東端にロンドン塔を造営した。しかし,征服王は他方では特許状によって市民たちに自治を認めたので,彼らは参会員を選び,同じ職種に従事する職人たちは同職組合(ギルド)を組織して同一地域に住んだ。そして,13世紀初めごろにはジョン王から市長選出の権利も認められた。そのころのロンドンの人口はまだローマ時代の最盛期に及ばなかったが,それでもあちこちからの人びとの流入によって人口は少しずつ増えていった。たとえば,13世紀には大陸からの修道士の来住が盛んになり,ドミニコ修道会の黒衣修道士たち,フランチェスコ修道会の灰衣修道士たち,カルメル修道会の白色修道士たちが続々とやってきて病人や貧民の救済に立ち働き,その名残りは今も地名に見られる。修道会の一つとも言えるテンプル騎士団は14世紀初めに解散され,その跡地は法学院に貸し出されて,現在もテンプルの名を留めている。また,大陸諸国との交易が盛んになるにつれて外国商人の定住者も増え,スティールヤードはドイツのハンザ商人の居住地になり,ロンバート街は北イタリア(ロンバルディア)の銀行家や商人の街になった。

【16・17世紀】テューダー朝に入ると政治の中心としての首都の比重はいっそう高まり,ヘンリー8世はセント=ジェームズ宮殿を建てた。また彼が断行した宗教改革に伴ってロンドン内外の修道院領も没収・売却され,かなり窮屈になっていた住宅事情を緩和した。しかしそれも一時しのぎにすぎなかった。封建家臣団の解散・修道院解散・囲い込みなどによって職を失った人びとは続々ロンドンに流れ込み,浮浪者があふれ,家並みは市壁外に広がっていった。そのため,人口はテューダー朝期(1485〜1603)の百余年の間におよそ5万人から20万人にふくれあがった。ところで,テムズ川にかかる橋はローマ時代以来ロンドン橋だけであった。これを渡った先がサザックで,ここは中世から遊興の地として知られ,テューダー朝時代には,いかがわしい施設の他,熊闘技場やシェイクスピアの本拠グローブ座などが建って郊外の歓楽街になった。17世紀のステュアート朝期にロンドンはいくつかの試練を経験した。清教徒革命期に市民は国王軍の来襲に備えて緊張したり,クロムウェルの厳しいピューリタニズム支配にうんざりしたりした後,チャールズ2世を亡命先から迎えて王政復古を目撃したが,その5年後の1665年,ペストが彼らを襲った。ペストはこれまでも度々ロンドンを荒らした厄病であったが,今回はとくに猛威を振るい,10万人近い人命を奪ったと言われる。しかもそのショックからまだ立ち直っていない翌年には,大火事で市内中心部の大半を焼失するというダブルパンチを受けた。それでもロンドン市民の生命力は強靭で,焼失したセント=ポール聖堂がレンの手で再建されたように,家屋も今度は石造りで再建され,世紀末ごろには人口は50万を超えていた。

【18世紀】18世紀の文壇の大御所ジョンソン博士は〈ロンドンにあきた者は人生にあきた人間だ〉と言ったが,確かにそのころのロンドンでは,昔からの演劇や牛いじめなどはもとより,ラニラ・ヴォクスホールなどの遊園地が開設され郊外には鉱泉が開発されて娯楽は非常に豊かになった。なかでも,17世紀半ばから始まったコーヒー=ハウスは市民の社交場となり,職種や趣味によって行きつけの店が定まるようになって,ロイド亭からは今日のロイド船級協会が生まれ育っていったし,多くの店が各種のクラブの源になった。18世紀のうちにテムズ川にはロンドン橋以外に二つの橋が架けられ,市壁はかなり取り壊された。こうしたことは人口が増え続けるロンドンの膨張の表れであったが,それはまた貧民やスラム街の増大をも意味していた。彼らは安酒のジンに酔って自暴自棄的な生活に走り,犯罪は絶えず売春婦は巷にあふれた。

【19世紀】19世紀に入るころ,ロンドンの人口はすでに100万近くに達していたが,産業革命が進展しイギリスが世界の工業国として発展するにつれてロンドンの比重はますます増大し,1851年にはハイド=パークの水晶宮で万国博が開かれたし,それと相前後してウェストミンスターに新国会議事堂が完成し,ビッグ=ベンテムズ川に影を映した。また,1830年代後半以降,鉄道が普及するにつれてロンドンには次つぎに駅がつくられ,国内各地への交通の中心になるとともに1860年代からは地下鉄も走るようになった。しかし,世紀前半にコベットが「おでき都市」と酷評したように,市街地は四方八方に醜く伸び広がり,人口は世紀半ばに250万に達する有様で,ロンドンは身動きできなくなって1888年行政上の大改革が断行された。すなわち,かつて市壁に囲まれていた旧市街約1平方マイルはシティとしてロンドン市長の管轄内に残されたが,ウェストミンスターサザックなども含めた広大な地域はロンドン=カウンティとしてまとめられた。人口は19世紀末には500万を超していたから,ヴィクトリア時代においても下層民の住宅問題やスラム街の問題は依然として深刻であったが,女王の夫アルバート公や小説家ディッケンズらの努力もあって事態は少しずつ改善されていった。一方,19世紀末か20世紀初めごろから郊外にセミ=デタッチト=ハウスと呼ばれる半独立家屋が多く建てられ,これが中産市民の代表的な住居になった。

【20世紀】20世紀前半にイギリスが巻き込まれた二つの世界大戦は,ロンドンにもさまざまな影響を与えずにはおかなかった。とくに第二次世界大戦ではドイツの爆撃機やロケット弾(V1号・V2号)による空襲を受け,市民はそのたびに地下鉄の駅などに難を避け,建て物や人命の喪失も少なくなかった。しかし,彼らはお得意のユーモアでこの苦難を耐え忍び,戦後はただちに再建にとりかかった。戦後,イギリスは植民地との絆を連邦という形態で保ち,1960年代のイギリスの好況期にそれら連邦諸国,とくに西インド・インド・東南アジアの国々から労働力としてロンドンに移り住む人々が増え,ロンドンは国際色が豊かになるとともにますます人口が増えた。そこで1965年には近隣諸州の一部をも含む人口800万のマンモス都市グレイター=ロンドンとして再編成された。しかし,最近はニュー=タウン政策の影響もあって,人口の漸減傾向が続いておりすでに700万人を割っている。1984年サッチャー首相は,ロンドンの行政の能率化を図るため,グレイター=ロンドンを解体して各区を独立させようというロンドン解体構想を発表した。もしこれが実現されればロンドンという都市名が地図から消えるかもしれず,イギリス人ならずとも気になるところである。〔参考文献〕ミッチェル・リーズ共著,松村赳訳『ロンドン庶民生活史』1971,みすず書房

小池滋『ロンドン』1978,中公新書

ヒバート,横山徳爾訳『ロンドン−ある都市の伝記』1983,朝日イブニングニュース社

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