●ローマ
ヨーロッパ イタリア共和国 AD
イタリア共和国の首都。テュレニア海より24km。テーヴェレ河左岸を中心に発展。人口は219万6,000人(1980)。【古代】伝説の一つ(ウァロー)によると,ローマは前753年4月21日にロムルスによって建設されたとされる。しかし考古学的資料はローマ建国以前に住民が居住していた事を示し,フォルム=ボアーリウムからは青銅器末期から鉄器初期(前14世紀〜前7世紀)に属する遺物が発掘されている。ラテン人がパラティーヌス丘に定住したのは前800年ころとされる。フォルム=ローマーヌムの形成をもってローマの起源とするイェシュタードの「前575年説」を除いて,研究者の多くは「前8世紀説」を支持する。ローマが都市としての景観と制度を整えていくのはエトルリア人の支配の時代である。セルウィウス=トゥリウス王のとき,城壁が構築されローマは都市の体裁を整えた。7代の王政が続いたが,後半エトルスキ系の王の支配を受け,前509年王政は崩壊し共和政となった。前3世紀の中ごろまでにイタリア半島を征服したローマは前2世紀ころよりヘレニズム世界と接触し,ローマ都市の人口は増大した。前27年アウグストゥスがローマ帝政を開始したとき,彼はローマを煉瓦から大理石の町に変えたと言われる。五賢帝(96〜180)ころ古代ローマ都市はその頂点に達し,帝国の首都として人口80〜120万と言われ,宮殿・元老院議事堂・神殿・円形闘技場・劇場・競技場などの豪華な公共建造物が建てられ,今日においてその当時の遺跡を通じてローマ市民の生活を偲ぶことができる。しかし330年にコンスタンティヌス帝(在位306〜340)が首都をコンスタンティノープルに移すと,ローマは政治的重要性を失ってしまった。
【中世】410年の西ゴート人の襲撃以来,ローマは古代末期から中世初期にかけて外部の略奪や破壊を受けて衰微した。とくに,水道の破壊は高台の放棄とテーヴェレ河両岸の低地への人口集中を結果し,人口は3万〜3万5,000(10〜14世紀)の水準にとどまった。
554年のユスティニアヌス帝の「基本勅令」は元老院の政治的重要性を奪い,教会が都市行政を管掌するようになった。しかし,ローマ貴族と教会の葛藤は中世ローマ政治史を特徴づける。1143年の民衆の蜂起はコムーネを結成させ元老院がローマ支配した。インノケンティウス3世(在位1198〜1216)は元老院議員候補者指名権を得て,コムーネに対する教皇主権を回復した。教皇のバビロン捕囚(1309〜1377)の間貴族がローマを支配した。1347年コーラ=ディ=リエンツォ(1313ごろ〜1354)は貴族支配下に抗して蜂起し,一時政権を掌握したが民衆の支持を失って失脚した。このころ教皇から派遣された枢機卿アルボルノスは中部イタリアにおいて教皇の権威を承認させて教会国家の基礎を確立した。
【近代および現代】ルネサンスの諸教皇はローマの美化に努め,ヴァティカン宮やシスティーナ礼拝堂の造営,サン=ピエトロ寺院の再建や市街地の整備を行った。16世紀にはルネサンス文化の中心となり,1527年の「ローマ略奪」にもかかわらず,シクストゥス5世(在位1585〜1590)の水道(Acqua Felice)の改修以降人口は増加し,17世紀には右岸にまで市街地は広がった。1797年,ローマはナポレオンの支配下に入る。ウィーン会議は1815年ローマを教皇に返還した。1848年に革命が起こるとピウス9世(在位1846〜1878)は亡命し,翌1849年にはローマ共和国が宣言された。しかしフランス軍はローマを占領,駐留して教皇を保護した。1870年,フランス軍が撤退するとイタリア王国はローマを併合し1871年首都と宣言した。教皇は「教皇保障法」を拒否し王国との対決を続けた。ムッソリーニ(1883〜1945)は1929年教皇とラテラン条約を結んで王国と教皇庁とを和解させるとともに都市の改造に着手した。1943年のドイツ軍の占領を経て,1948年以降イタリア共和国の首都となる。
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