50音順    検 索

●ロベスピエール

ヨーロッパ フランス共和国 AD1758 フランス王国

 1758〜1794 フランスの革命家。アルトワ地方のアラス市の生まれ。旧家の出で父はアルトワ評定院の弁護士。若いころ父が失踪し,ビール製造業者の母方祖父の手で養育されオラトワール修道会の教育を受けた後,ルイ=ル=グラン学院の給費生となる。同院の下級生にデムーランもいた。勤勉で沈着,成績もよく,1775年,ルイ16世のランスでの戴冠式の帰途,ラテン詩での祝詩を読む役にも指名された。1781年の卒業後,“避雷針”事件を引き受け弁論を出版。その名がパリにまで知られるようになる。1783年,啓蒙主義の砦だったアラス=アカデミーに加入。この間ルソーの書物に傾倒した。1789年,全国三部会にアルトワ州の第三身分議員として選出されるが,その際の陳情書作成や選挙運動は職人・農民を主眼としていた。人権宣言審議では言論・出版の自由を擁護したにとどまらず,人民主権・単一の一般意志の立場から権力の分割にさえ疑問を呈した。国王拒否権も同じ立場から反対し最左翼少数派に位置した。当時ミラボーは〈この男は遠くまで行くだろう。自分のいうことを全部信じているから〉と評したという。ジャコバン協会に加入し立憲議会でよりも雄弁が冴えた。とくに選挙権の差別を攻撃。この問題で1791年4月にはコルドリエ協会でも演説。5月には立憲議員の不再選を決議させ,立法議会の構成に重要な影響を及ぼすことになった。1791年9月に完成のフィヤン派憲法は欠陥をもつとしながら,戦略的配慮から正面攻撃はさし控え,市民による行政権・軍隊の監視を進めた。1791年11,12月の開戦の是非を巡る論議では,ブリッソなどジロンド派の聖戦論を非難し,戦勝を収めた場合でも将軍の軍事クーデタをもたらすとし,敵は国内にありの立場をとった。1792年春から夏の危機では連盟兵や戦闘的自治区との結びつきを重視し,7月末には国王の失権だけでなく立法議会の消滅も唱えた。8月10日事件の直後,蜂起コミューンにピク区の代表として加わり,国民公会召集までの行動の自由を求めた。9月初めからの選挙では蜂起委員の進出を進め,自らもパリ県からマラー・ダントンなどとともに選出され山岳派と呼ばれた。国王処刑問題では共和政樹立自体によって国王は裁かれているとし即時死刑を要求,ジロンド派と論戦した。1793年3月には革命裁判所を創設させ非常手段の採用を進める一方,食糧暴動に走る民衆を叱咤してジロンド派追放のため嚮導しようとした。このため,生存権の承認とパリ防衛に武装して過ごす日ごと,給料を支払われる“革命軍”の創設などを求めた。ジロンド派追放後,先に彼が私案をつくっていた人権宣言を憲法とともに採択させた。所有権の社会的制約を意図した原案は取り入れられなかったが,蜂起権の規定は彼の勧めによる。だが,共和国憲法の布告と同時にその施行を延期させたのも彼の提案に基づいている。恐怖政治を推進する公安委員会で中心的な位置にあり,サン=ジュスト・クートンを腹臣としたが,3月末のエベール派,4月初のダントン派処刑後,他の公安委員と摩擦を生じ,〈徳の共和国〉をめざして挙行した最高存在の崇拝は不人気で,その禁欲主義が国民公会議員からも敬遠された。また恐怖政治の柱とした一般最高価格法は,エベール派処刑後,労賃の上限規定の方を厳しく実施したため,職人層が中心であるサン=キュロットの不満を招き,7月27日=テルミドールの反動によってあっけなく逮捕され翌日処刑された。彼の占めた位置はブルジョワ革命としては左に振り子が振れ,小ブルジョワ的理想に走った局面と言えよう。しかしそれゆえにバブーフによる再評価を受け,19世紀初期の思想史でも急進共和派の胸中によみがえることになる。

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