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●露土戦争 ろとせんそう

NIS諸国 ロシア連邦 AD 

 17世紀以降オスマン軍トルコ帝国が衰退するに従って,ヨーロッパ諸列強がその領土を支配しようとしてしきりに介入するようになった。中でもバルカン半島への進出と黒海から地中海へ出る海峡の確保を狙うロシアが最も活発であり,ロシアとトルコの間に戦争が頻発した。この一連の戦争を総称している。

【ロシアのバルカン進出】ピョートル大帝(在位1682〜1725)のアゾフ遠征以降,ロシアはトルコとの戦いでアゾフ地方を失いまた再獲得したが,ロシアの南下が本格化したのはエカチェリーナ2世(在位1762〜1796)の時代であり,1768〜1774年の戦争を一般に「第一次露土戦争」と呼ぶ。フランスの後押しを得たトルコはロシアに宣戦したが戦場で完敗し,1774年のクチュク=カイナルジ条約により,ケルチなどの黒海北岸のいくつかの地域を失い,“キリスト教徒保護”の名目でトルコ内政に干渉する権利をロシアに認めた。「第二次露土戦争」(1787〜1792)は,エカチェリーナがグルジアとベッサラビアの割譲をトルコに要求したのに対し,憤慨したトルコ皇帝が宣戦したものだが今回も敗北,1792年のヤッシー条約によってドニエステル河までの黒海北岸をロシアに奪われた。「第三次露土戦争」(1806〜1812)は,ナポレオンに激励されたトルコがロシアの既得権を否認したため発生したもので,英国が仲介に入ってブカレスト条約が結ばれ,ロシアはモルダヴィア・ワラキア二公国の支配をあきらめる代わりに,トルコからベッサラビアを獲得した。ロシアのバルカン進出は,中東からインドにかけての地帯に強い関心をもつ英国や,バルカンに野心を寄せるオーストリアなどの強い反発を招き,ここに“東方問題”ないし“バルカン問題”と呼ばれる近代欧州外交史上最大の問題の一つが発生する。

東方問題の深刻化】19世紀に入るとセルビア人を初め,トルコ支配下にあったバルカン諸民族が独立闘争を開始し,列強のバルカンへの関心も強まった。1821年にギリシア人が独立運動を始め,それに対するトルコ・エジプト連合軍の血なまぐさい弾圧に欧州諸国の世論は沸き返ったが,ロシアはギリシア・セルビアの自治を認めるよう単独でトルコに迫り,1828年に宣戦を布告した。この「第四次露土戦争」(1828〜1829)の結果,ロシアが勝利してアドリアノープル条約が結ばれ,ロシアはさらに黒海北岸の東部地域と海峡の自由航行権を手に入れ,ギリシアの独立・モルダヴィア・ワラキアの自治拡大,セルビアの自治をトルコに認めさせた。こうしてバルカン諸民族の自立過程にロシアが影響力を強めていく形勢に,諸列強の反発が高まった。ロシアがトルコ帝国内のキリスト教徒に対する自国の干渉権を条約化するよう要求したのに対し,トルコが英仏を後楯としてそれを拒否し,「第五次露土戦争」(1853〜1856)が始まった。黒海の海戦でトルコ艦隊が全滅したのを見た英仏は,1854年にロシアに宣戦しクリミア戦争が開始された。結局ロシアは敗北し,1856年のパリ条約によって黒海の非軍事化・トルコ内政への干渉禁止などを認めさせられた。しかしロシアは野心を捨てず,普仏戦争で列強の目が欧州に向いている時期に黒海の軍事化を強行した。1875年にボスニア・ヘルツェゴヴィナで反トルコ蜂起が起こり,翌年蜂起はブルガリアへも波及,セルビア・モンテネグロがトルコに宣戦した。ロシアは,トルコに対しブルガリアでの虐殺中止,ロシアへの特使派遣などを要求,それが拒否されると宣戦を布告した。こうして開始された「第六次露土戦争」(1877〜1878)においても,ロシアの軍事的優勢が明らかになり,ロシア軍はコンスタンティノープルへ兵を進めた。英墺が軍事的圧力をかけて牽制したのでロシアも進撃をあきらめ,1878年3月にトルコとサン=ステファノ条約を締結,黒海北岸の領土をさらに広げた。条約によりセルビア・モンテネグロ,ルーマニアは完全独立し,広大なブルガリア自治公国がつくられることになったが,ロシアの勢力拡大を恐れた列強はベルリン会議を開き,ブルガリア領を縮小させた。