●ロシア文学 ロシアぶんがく
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【起源】文学の歴史はことばの歴史とともに古いであろうが,そのことばが文字に記され,その文章があるまとまった作品として残っているところから文学史は書かれてきた。その文字をロシアが使うようになったのは,キリスト教の洗礼を受けてビザンツの文化に浴したおよそ10世紀の終わりのことである。ビザンツの東方教会の宣教師キリロスとメソジオスがモラヴィア(今のチェコスロヴァキアの一部)のスラヴ人に布教したとき,福音書などを土地のスラヴ語に翻訳するのにギリシア文字を母体としてつくった文字を使ったが,その翻訳の文章がやがていわゆる教会スラヴ語として文章語の標準になっていく。それを古代ロシアのキエフ国が受け容れこの文章語はほとんど17世紀まで使われていく。それとは別に,それぞれの方言で歌われ語り伝えられる民謡や民話の口承文芸があったが,それらが記録され集成されるのは18世紀の末からである。【11〜17世紀】ロシア文学史は普通,口承文芸を除外して文字に記された作品をのみ扱い,11世紀から説き起こして,17世紀までを括って古代文学史と名づけ,18世紀以降を近代・現代とするのが例になっているが,ヨーロッパ文学史の常識に従えば,古代と言えばギリシアとローマの文学であり,どの国の文学史も中世から始めて,ルネサンス,17世紀……という具合に区分されている。それに倣って,ロシアでも近年は11〜17世紀を中世と呼ぶ人もいるが,この時期を一括して古代と呼ぶのはあるいはロシア文学の実情に即しているであろう。
この7世紀ばかりの間に,1237年蒙古=タタールの侵攻によってキエフは滅び,1480年イワン3世がそのキプチャク=ハン国の支配を脱するまでほぼ2世紀の空白の後,モスクワを中心とするロシアがキエフの文化を継承しようとしつつ16・17世紀とゆっくり近代化の道を歩むが,この“タタールのくびき”と,1453年のオスマン=トルコのコンスタンティノポリスの占領によるビザンツ帝国の滅亡によって,ロシアは古典古代と断絶しルネサンスをも経験することがなかった。それはその後の,ほとんど今日に至るまでのロシアの運命を決定した。それは18世紀の文学の歩みにも表れている。古代文学史を読むと,そこで支配的なジャンルは年代記という歴史記述と聖者伝の二つであり,文学はもっぱら僧院や教会で営まれており,15世紀後半になってようやく世俗の物語が現れるようになるが,ついに抒情詩のジャンルは認められず,わが国の万葉集や古今集といった詩歌の集成が編まれたこともない。ロシアで抒情詩が書かれるのは17世紀の後半,ポーランドを経てヨーロッパの詩型が入ってきてからである。
ロシアで一番古い文書は,民族の生成を物語った『原初年代記』あるいは『過ぎし歳月の物語』という11世紀から12世紀にかけて僧院で書き継がれたわが国の『古事記』のようなものだが,原本は伝わらず14世紀の写本で残っている。こうした年代記は,さらにタタールとの戦いを記録した『ロシア国土滅亡の物語』という断片や,アレクサンドル=ネフスキイ公一代記などを産むが,古代ロシア文学のもう一つの記念碑は『イーゴリ軍記』というキエフ大公の従弟イーゴリの,広野における悲劇的な合戦を吟遊詩人ポヤーンが語った物語がある。それは長い間忘れられていて18世紀の末に写本が発見されたが,英雄叙事詩とビザンツの修辞を受け継いだ記述文学との優れた総合であると言われる。15世紀になると,モスクワの中央集権的な国家の要請から,その政権に対する教会の力の大きいことからと,年代記の編さんや聖者を称える一代記が盛んになると同時に世俗の物語もヨーロッパから翻案されたりしてしだいに行われるようになる。17世紀になると,すでに述べたように抒情詩が音節を合わせてつくられたり,常設の劇場がつくられたりするようになる。こうした文学の世俗化のなかで,17世紀の後半,異端のラスコリニキ・分離派教徒アヴァクームの自伝も書かれた。それはもはや教会スラヴ語の枠からそれた,ロシア語の方言を用いた個性的な文体であった。
【18世紀】ヨーロッパの文物制度を取り入れて,近代的な国家をつくりあげようとしたピョートル1世の治世によって始まった18世紀は,ロシア文学の啓蒙時代であった。キリル文字を今日行われているローマ字化した文字にし,印刷所を設け新聞雑誌を発行した。文学の課題は,教会スラヴ語から日常のことばによる文章語をつくることであった。モルダヴィアの領主の息子カンテミールは,フランスやギリシア・ローマの文学を翻訳紹介し諷刺詩を書き,カスピ海のヴォルガ河口の出のトレジャコフスキイはパリに留学して,詩を音節をそろえるばかりでなく,アクセントの抑揚による詩を書いて定型をつくった。また白海の漁師の子ロモノーソフは,ペテルブルクの大学からドイツに派遣され自然科学の勉強をして帰ってくると,ロシア語の文法と文体に理論を与え,詩を書いた。モスクワ貴族の出のスマローコフは,フランス古典主義に倣って悲劇や詩を書き1761年初めての民間雑誌「働き蜂」を出した。
18世紀後半は,夫亡き後帝位についたドイツ人エカテリーナ2世の時代である。彼女はヴォルテール・ディドロと文通し,啓蒙主義の理想に燃えて法典を編さんし教育を振興し著作し雑誌を出した。そのエカテリーナに対抗したのがモスクワの貴族ノヴィコフである。彼は1769年以来,次々と雑誌を出しては潰し,諷刺と啓蒙をした。当時はまだ購読者が少なくて経営が難しかった。雑誌発行が,商業ベースに乗るようになるのは1830年代からである。ロシアの近代化は絶対君主の政府主導であって,民間の活力はむしろ抑えられ,また国家体制が整備するにつれてたとえば農奴制は強化され,貴族と一般庶民との格差が助長されそのことにロシアは長く苦しむことになる。そうした矛盾を描いたのが,ラジシチェフの『ペテルプルグからモスクワへの旅』(1790)である。女帝は彼をシベリアに流刑にした。また帰化ドイツ人の子孫フォンヴィジンは『旅団長』・『親がかり』という喜劇を書いて上流社会の虚偽を笑った。この精神は,グリボエードフの『智恵の悲しみ』(1824),ゴーゴリの『検察官』(1836)へと受け継がれていく。
【ロマン主義】18世紀に,ヨーロッパの忠実な弟子として出発したロシア文学は,その後,師と運命をともにすることになる。そのヨーロッパ文学は18世紀に大きく変貌した。ジャーナリズムの成立,文学はもっぱら新聞・雑誌を媒体として伝達され,市民の閑暇を楽しませる娯楽であり,また教会の支配から解放されて独立した個人の孤独な良心に働きかける教材となった。こうして文学は,神の前にひとり立たされた人間の孤独と不安の告白となり,人格の絶対的な自由を求めて,社会の契約と国家の権力と風俗の因習に挑戦するヒーローの内心の葛藤と生活の苦闘の物語となる。この精神が,18世紀の終わりから19世紀にかけてロマン主義の運動となって,フランス革命と続くナポレオンの戦争のおかげでヨーロッパ諸国間に交流し,ロシアにまで達する。
ロシアのロマン主義は,ヨーロッパ旅行の記録『ロシア旅行者の手紙』,百姓娘の貴族との悲恋物語『哀れなリーザ』(ともに1792),『ロシア帝国史』(1819〜1829)によって,清新な散文を創り出したカラムジンや抒情詩に自然な感情を吹き込んだジュコフスキイあたりから始まり,プーシキン・レールモントフ・チュッチェフらにおいて花開く。バイロンのような抒情的な叙事詩から文学を始めたプーシキンは,韻文小説『エヴゲーニイ・オネーギン』において,現代の風俗を見事に造形し,世紀の病に悩む青年像を刻み,史劇『ボリス・ゴドゥノフ』や散文小説『大尉の娘』などでロシア歴史の国民生活を描いて,簡潔端正な新しいロシア語をつくり,民話・民謡を素材とする作品・抒情詩など,ほとんどあらゆるジャンルを開拓し,晩年は雑誌を出すなど19世紀ロシア文学発展の基礎をつくった。レールモントフもバイロンから出発して,人間の孤独な不安をうたった薄命の詩人だが,晩年に小説『現代のヒーロー』(1840)を書いて,辺境コーカサスの山岳の自然と,そこで繰り広げられる冒険と戦闘を描いて,そこにのみ生きがいを見出すしかない青年の感情と意識を告白させる。チュッチェフは外交官としてドイツへ行き,シェリングやハイネに親しみ,自然をうたって地上の孤独な魂の宇宙との交歓を表白した抒情詩人で,後の象徴主義の詩人たちに影響を与えた。ロマン主義はもう一つの問題を提起した。それは民族の自覚である。諸民族は,それぞれ自分のルーツをたどり,民話や民謡を採集し国語のあるべき姿を求めた。先に挙げた『イーゴリ軍記』もそうした文脈のなかで見出されたのであり,カラムジンのロシア史も書かれたのである。とくにヨーロッパ化をめざしたロシアは,理念や制度はヨーロッパ的になっても,農村共同体に基づく家父長制の因習になじんだ現実に直面して,「ロシアとは一体何か」という問を発しないわけにいかなかった。1836年,エリート貴族チァダーエフはフランス語で『哲学書簡』を書き,自分の国を激しく糾弾して,ロシアは西(ヨーロッパ)と東(アジア)とそのいずれの伝統にも属さず,いわば時間の外にあって荒野をさまよっているかのようで何ものも生み出さないであろうと言った。これをきっかけとしてヘーゲルやシェリングの観念論哲学のもとに国民性論争が盛り上がり,それはやがて,ヨーロッパ市民社会の自由の理念の実現を求める西欧派と,個人主義と法秩序を否定して教会を中心とする共同体を理想とするスラヴ派との対立を生み,この対立をいかに解決するかがその後の文学の主たる課題となった。
【写実主義】ロシアのロマン主義文学は,もっぱら地主貴族のモスクワやペテルブルクのサロンを母胎として生まれ彼らの仲間内で流通していたが,1830年代から,文学は雑誌を発表の舞台とするようになっていった。それは貴族にも農奴にも属さない第三身分のいわゆる雑階級と呼ばれる人たち,商人・僧侶,小官吏・あるいは没落貴族の子弟が都会に出てきて活字を読む習慣を覚え,そうした人たちを相手に新聞・雑誌が売れるようになった。そこで,今までの文学に興味のない読者に提供する低俗な軽い読み物が現れた。そのときお手本になったのはパリのジャーナリズムである。フランスでは,すでに20年前からそうした読み物が盛んになったが,それはもっぱら都会生活の種々相を戯画化した人物や風俗の挿し絵を添えて,面白おかしく書きたてた。それは“生理学もの(フィジオロジイ)”と呼ばれたが,バルザックもそうした文学から出てきた作家である。それに若いロシアのジャーナリズムも感染して,1840年代には生理学ものが流行する。たとえば,没落地主の子弟ネクラーソフが1845年に出した『ペテルブルグの生理学』という2巻の文集は,門番や手風琴弾き・役人・ルポライター,あるいは乗合馬車や場末の街の風俗の探訪記事を当のネクラーソフ初め,グリゴロヴィチ・パナーエフといった若い作家が書いたものだが,それがベストセラーになり,それに気をよくしてネクラーソフが続いて出したのが『ペテルブルグ文集』,その巻頭を飾ったのがドストエフスキーの『貧しき人々』で,これで彼は文壇に華々しくデビューすることになるのだが,その小説は生理学もののいわばパロディであった。ネクラーソフは元来,詩人を志して田舎から出てきたのだが,詩では食えないのでジャーナリストになって,やがて「現代人」という19世紀ロシア最大の雑誌を経営することになる。この雑誌を舞台として,ロシア最初の職業批評家ベリンスキーはこの新しい文学の意味を説き,ロマン主義の詩人として出発したツルゲーネフは,後に『猟人日記』としてまとめられる田舎の生理学を書き,商人の息子ゴンチャロフは「平凡物語」でデビューし,トルストイは『幼年時代』からセヴァストポリの戦記物を書いて作家になるという具合に,1860年以後に花開くロシア写実主義の代表たちが巣立っていく。
1854年,宿敵トルコとその同盟軍イギリス・フランスと黒海の制海権を争ったクリミア戦争の不首尾と,パリ講和条約の屈辱をなめたロシアは,近代化のガンである農奴制の廃止を初めとする行政司法などの自由化政策を1860年代の初めから打ち出すとともに,その是非をめぐって言論は沸騰した。そのとき指導的役割を演じたのは,チェルヌィシェフスキイやドブロリュボフを擁する「現代人」誌であった。そこで再びロシアのあり方,ロシア人とは何かという問題が論議され,そうした状況から19世紀ロシア文学を代表して,やがてヨーロッパに衝撃を与えるようになる数々の傑作が1870年代にかけて書かれた。ゴンチャロフ『オブローモフ』・ツルゲーネフ『貴族の巣』『父と子』・ドストエフスキイ『罪と罰』『白痴』『悪霊』・トルストイ『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』・ネクラーソフ『誰にロシアは住みよいか』など。これらの作品が,ゴーゴリの『死せる魂』を先頭とするロシア写実主義の成果だが,そこに共通して見られる動機は,ヨーロッパ化した知的ロシアが,父祖の地ロシアから切り離されている悔悟とその大地への憧憬である。この動機は今後とも長くロシア人の心に残り絶えず文学に働きかけていくであろう。1840年代に始まった写実主義の文学は,1880年代の初めにその創造の可能性を使い果たす。ネクラーソフ・ドストエフスキイ・ツルゲーネフは死に,ゴンチャロフ・トルストイはなお生き残るけれども何も書かないか,あるいは説教者になってしまう。そしてそれに代わるべき新しい文学もない。これが1880年代の状況であった。
【象徴主義】それが1890年代に入ると,ロシア文学は歴史の新しい段階に入る。それはメレジュコフスキイの「現代ロシア文学衰退の原因と新潮流」という批評的宣言(1893)と,ブリューソフ編の『ロシア・シンボリスト』 I 〜 III(1894〜95)の詩の実験から始まった。ロシアの象徴主義の運動は,直接には前代の人民主義の倫理的リゴリズムから人間や芸術を解放すること,現実の背後に隠れていてことばではとらえ難いイデーを見,それをシンボルとして表現すること,それはヴェルレーヌやマラルメが言ったように,ことばではなく音楽でしか表現され得ないこと,そしてそのイデーの源型を求めて民族文化の源を探求すること,この三つに要約することができるであろう。この運動は,1880年代に顕在化するフランス象徴主義に触発されて起こったけれども,ちょうどそのときヨーロッパも自分たちの文明に疑いの眼を向け,その存在理由をどこに見出そうかとしてロシア文学に遭遇した。ヨーロッパはロシアによって自分を見直し,またロシアは,ヨーロッパによって自分を再発見する機縁を得た。これがこの時代の意味である。
象徴主義の文学は,もっぱら詩によって表現されたけれども,元来ことばで言い表し難い消息を表現しようとするのであるから,ことばから日常の意味をはぎとり,そのイメージの陰影=印象を語ることをめざした。こうして20世紀に入ると,さらに若い世代が抒情詩や劇詩や詩的散文を書いて,新しい文学世界を拓いていく。たとえば,ブロークの処女詩集『美しき婦人をうたう歌』(1904)劇詩『見知らぬ女』(1906)・ベールイの小説『ペテルブルグ』(1916)などがその代表である。この時代の文学のもう一つの特徴は,題材の組み立て方といい,文章の叙述といい,詩と散文の境界がなくなったということである。それは,たとえばチェーホフの晩年や,初期のゴーリキーの優れた小説や戯曲,あるいは批評家ローザノフの心のつぶやきをそのまま写した散文集『落葉』(1912)などに明らかである。1910年,運動としての象徴主義は命脈が尽きた。シンボリストは雑誌「天秤(ヴェスイ)」を出していたが,そこから若い世代が叛旗を翻して「アポロン」という雑誌をつくり,アクメイズム(アクメとは頂点・極致ということ)を名乗り,象徴主義のものの陰影ばかり追いかける。あいまいな表現を否定して,ものとことばを直接させて明晰な表現に向かう。グミリョフ・その妻アフマートワ・マンデリシタムらがその代表である。続いて,1912年の末「社会の趣味に平手打ち」という四人連名の宣言が出た。ブルリュク・クルチョヌイフ・マヤコフスキイ・フレーブニコフである。彼らは,イタリアのマリネッテイに倣って,観念の奴隷にすぎない従来の文学を否定して,ことばから意味やニュアンスの一切をはぎとり,ことばを物と化させ何ものも意味しない「音言葉」をつくろうとする。ロシア未来派の誕生である。これらの運動のなかで批評も生まれ変わる。倫理や社会の価値を問う観念的批評や印象主義の批評に反対して,人間におけることばの機能を問う分析的批評が現れた。シクロフスキイ・ヤコブソン・エィヘンバウム・トィニャノフらがその代表だが,それは形式主義という非難のレッテルをはられることになる。こうした運動は,直接には象徴主義に対する反動として現れたけれども,それは絵画の印象主義から始まってそれに対する表現主義,そしてカンジンスキイの抽象画に至る,またワグナーの楽劇から多調・無調音楽に至る,思想では新カント派から現象学に至る,演劇・映画におけるスタニスラフスキイからメイエルホリド・エィゼンシュタインに至る,19世紀末から20世紀にかけて始まった文化の新しい運動の流れの一環としてとらえなければならない。そのときロシアは完全にヨーロッパの主要な構成員となったが,そこで18世紀のヨーロッパで成立した文化の理念はその役割を終わり,未知なる領域に挑戦する現代が始まった。
【現代】この現代文学史をロシアでは,1917年の革命とソヴィエト政権の誕生から始めるのが例になっている。けれども言うまでもなく,この政治事件で文学の営みがはっきり分断されるわけではない。1920年代は,先に述べた象徴主義に始まる文学運動の継続と,それと闘うプロレタリアートの政権の政策との確執の歴史である。それは第一次世界大戦後,ヨーロッパに現れたさまざまな運動・超現実主義・ダダイズム・構成主義・ジョイスの内的独白などの試みを背景として展開する。革命後,象徴主義の世代の多くはヨーロッパに亡命するか,一時避難するか,あるいは反革命のかどで国外退去させられるかする。そのなかで,たとえばシェストフ・ベルジャエフ,より若い世代のナボコフらは母国語や外国語で作品を書いて,外国で有名になる。この現象は現在まで断続して続いている。国内の作家たちは,革命を受け入れソヴィエト政権に積極的に協力するもの・それに抵抗するもの・現実を認めつつ創作の自由を保留する,いわゆる“同伴者”の三つに分けられる。それらはさまざまな機関や結社をつくる。文盲退治のためのプロレトクリト(プロレタリア文化教育団体)と,その衛星団体,共産党の指導のもとに攻撃的なラップ(ロシア=プロレタリア作家協会),雑多な同伴者の集団セラピオン兄弟,マヤコフスキイを先頭とする未来派のレフ(芸術左翼戦線),明確な理論を打ち出そうとする構成主義者など。これらの集団が,それぞれの主張と生存権をかけて互いに闘い,そのなかで多彩な作品が作り出されていく。たとえば,パステルナクの詩集『わが妹―生』・ザミャーチンの SF『我ら』・バーベリ『騎兵隊』・ショーロホフ『静かなドン』・レオーノフ『泥棒』など。この時期の文学の新しい特徴は,労働者や農民が,大挙して読者として作品の主人公として登場してきたことと政治理念の介入である。1930年代の初め,スターリン体制の成立とともに革命と文学の蜜月は終わった。1934年すべての結社を解消して唯一の職能団体作家同盟をつくり,社会主義リアリズムの精神によって創作することが要請される。その事態はほとんど1956年まで続く。その年2月の,第20回共産党大会による非スターリン化をきっかけとして文学は新しい局面を迎えた。過去の文学の再評価と新しい世代による文化活動の多面化。その運命を象徴するのはソルジェニーツィンの創作と,やがて亡命に至る彼の行動であろう。
〔参考文献〕木村彰一編『ロシア文学史』明治書院
スローニム『ロシア・ソビエト文学史』2巻,新潮社
プレシャック『ソビエト文学史』文庫クセジュ,白水社