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●ロシア革命 ロシアかくめい

AD1905 

 1905年,1917年の2月(新暦3月)および10月(新暦11月)の3回にわたって行われたロシアでの革命の総称。1905年革命あるいは第一次ロシア革命は帝政ロシアに憲政を開き,二月革命帝政ロシアを倒し臨時政府と労働者兵士代表ソヴィエトとの二重政権を産み出し,十月革命は臨時政府を倒してボルシェヴィキのソヴィエト政権を樹立した。

【革命運動の昂揚】1900〜1903年,ヨーロッパを襲った恐慌の影響下,ロシアでは労働者・農民のパンと土地を求める革命的運動が激化した。また,政府の被支配民族に対する圧迫は,彼らの民族運動を招いていた。1903年にはこれら労働者・農民・民族運動は全国的となった。同年,ロンドンでロシア社会民主労働党第2回大会が行われ,レーニンの率いるボルシェヴィキとマルトフらの率いるメンシェヴィキが形成された。一方,農民問題に関心をもつナロードニキの「人民の意志派」は,1901年社会革命党を組織していた。自由主義者たちも1903年「解放同盟」をつくり,後の立憲民主党カデット,1905年成立)の基を開き,立憲民主主義政体の樹立を目標とした。これら政党はすべて非合法下にあったが,それぞれの立場から専制政治を攻撃した。政府はこれら革命的運動に弾圧を加え反動体制を強化した。そして1904年(明治37)2月日露戦争が始まり,しばらくは愛国的感情の勃発で革命的運動も鳴りをひそめた。しかし,戦争の重圧のなか,革命への動きが再び見られるようになり,7月,ロシアの警察権を掌握し革命運動を抑えていた内相プレーヴェが社会革命党員に暗殺され政治に動揺が生じた。時に8月23日(新暦9月5日)遼陽が陥落した。自由主義者はゼムストヴォ(地方自治機関)大会を開き,再び立憲政治を要求し始め,労働者たちは12月バクーで大規模なストライキを行い,ロシアにおける最初の団体契約の締結に成功した。こうしたなか12月19日(新暦1905年1月1日)旅順が陥落した。

【1905年革命の勃発】1905年は旅順陥落の敗報のうちに明けたが,1月3日ペテルブルクのプチロフ工場で,3名の労働者が解雇されたことから参加人員1万3,000人の大ストライキがおこり,6日にはゼネストとなった。9日の日曜日,約20万人の労働者は「ロシア工業労働者同盟」の指導者で僧侶のガポンを先頭とし,冬宮に向かって行進した。彼らは,言論・出版の自由,労働組合組織の自由,憲法議会の召集,日露戦争の中止,8時間労働制の施行などの要求を掲げ自分たちの窮状を直接皇帝に訴えようとした。ところが,彼らが冬宮前広場に至ったとき官憲との衝突が起こり,多数の死傷者が出た。いわゆる「血の日曜日事件」である。この事件は全国的な反響を呼び各地に抗議ストが起こった。ガポンら革命主義者は国民にツァーリズムの無慈悲さを説き闘争の必要を訴えた。「血の日曜日」は革命への烽火となった。政府は初め弾圧の強化でこれに対した。しかし革命運動は続き,2月4日モスクワ総督で皇帝の叔父セルゲイ大公が暗殺された。ここに政府は妥協に転じ2月18日法案審議に参加すべき地方代表者の召集を約した。しかし,同25日(新暦3月10日)奉天が陥落しロシア陸軍は大敗北を蒙り政府の動揺が続いた。政府は妥協工作を進める一方,各種政治団体の解散を命じた。

【1905年革命の展開】ロシア社会民主労働党のボルシェヴィキは,4月ロンドンで第3回党大会を開き,武装蜂起を決議,帰国した党員は積極的活動を始めた。5月にはロシア第1の繊維工業地イヴァノヴォーヴォズネセンスクでストライキが起こり8月半ばまで続いた。このとき,労働者代表会議(ソヴィエト)が初めて設けられストライキを指導した。6月にはポーランドのロッズでロシア最初の武装蜂起が起こった。同月14日,黒海において戦艦ポチョムキン号上で水兵が反乱,軍隊における最初の革命的行動となった。一方,農民運動も春ころから始まり,ヴォルガ地方・白ロシア・ウクライナで相次いで蜂起した。それは,ヨーロッパ=ロシアの郡の七分の一,85郡に及んだ。解散させられた自由主義者の諸団体も,5月モスクワで「団体連合会」をつくり憲法制定議会の召集を要求した。時に,5月14日(新暦5月27日)アジアに廻航されたバルチック艦隊日本海海戦に敗れ政府は戦争終結を決意した。8月23日(新暦9月5日)ポーツマス条約が結ばれ日露戦争は終わった。これより先,8月6日政府は,立法権をもたず法案を審議するだけのいわゆる「ブルイギン議会」に関する勅令を発し,自由主義者の要求だけでも満たそうとした。しかし,この内相ブルイギンの案も終戦も革命の嵐を鎮め得なかった。

十月宣言十二月蜂起】1905年9月,ゼムストヴォおよび都市代表者大会が開かれ,「ブルイギン議会」反対が表明された。10月6日モスクワ鉄道にストライキが起こり,全国に波及,ペテルブルクにはソヴィエトが生まれた。ストライキは運輸・通信・出版を初め全産業部門に及び,参加人員100万人を数える一大ゼネストが起こった。国内の政治・経済の諸機能はいっせいに停止した。こうしたなかで政府はウィッテを登用し10月17日いわゆる“十月宣言”を発布した。それは「市民の自由権の牢固たる諸原則,すなわち人格の真の不可侵,および信仰・言論・集会・結社の自由」を認め,すべての階級が選挙に参加し得る立法権をもつ国会(ドゥーマ)の召集を約していた。この宣言は1905年革命の画期となった。自由主義者はその実施を待つばかりとなり革命運動の戦列から離れた。労働運動も一般に下降線をたどった。政府は21日政治犯の一部を大赦,政党の組織を許した。立憲民主党・十月党(10月17日同盟)などの自由主義者・ブルジョワ・地主政党が設立され,社会民主労働党・社会革命党などの社会主義政党も地表に出た。また24日にはフィンランドに自治が与えられた。10月26〜27日,クロンシュタットに水兵の暴動が起こり,11月11〜16日にはセバストポリで軍隊の反乱が起こったが政府軍によってすぐに鎮圧された。12月2日,モスクワのロストフ連隊の反乱に端を発し,4日モスクワ労働者代表ソヴィエトが指導したゼネストが武装蜂起となった。ボルシェヴィキも7日行動を開始し激しい市街戦の後19日鎮圧された。この十二月蜂起の敗北により革命は退潮期に入った。しかし農民運動はその後も衰えを示さず,サラトフ・シンビルスク・クルスク・チェルニゴフなどの諸県を中心に激しさを加え,1906年の秋以降になってようやく下火になる。

ストルイピン時代】十月宣言で国会開設が約束されたが,1906年2月20日公布の選挙法は,選挙民を権利面で不平等な四つの等級,地主・市民・農民・労働者に分け,間接に議員を選び選挙資格も制限されたものであった。その上,4月23日「国家根本法」が発布され,皇帝の至上権を再確認し国会閉会中の立法権を皇帝にあると規定した。ウィッテも4月14日辞職させられ,保守的なゴレムイキンが大臣会議議長(首相)となった。4月27日開かれた第1国会は反政府色が濃厚で,政府により禁止されていた土地問題以外はほとんど審議しなかったので7月9日解散させられた。これと同時にゴレムイキンに代わって首相となったストルイピンは,1906年8月14日発布の例外法(非常の場合国務大臣は適宜法令を出し得ることを規定)や,8月19日発布の戦時軍法会議法(秘密裁判と2日以内の判決・24時間以内の刑の執行を規定)によって革命運動の弾圧を行った。第2国会は1907年2月10日開会されたが,第1国会より急進的であったので6月3日解散,労働者・農民の選挙権を縮小した新選挙法を公布した。ロシア第1次革命はここに終わりを告げたとする見方もある。1907年11月1日に開かれた第3国会は政府の与党勢力が多数を占め,御用国会となり1912年6月9日閉会した。この間ストルイピン農業改革を行い,ミールの共同体的土地所有を廃し,200万戸にのぼる自作農を創設,もって革命の防波堤にしようとした。しかしこのストルイピンも1911年9月キエフで暗殺された。

二月革命への歩み】ストルイピン農業改革は,多くの自作農を創設したが反面農村の階級分化を促進させ,その60%は農業の資本主義的経営に敗れ,土地を売り工業労働者や農業労働者となった。また,ミールの廃止により都市労働者は村落農民から切り離されその階級意識形成が助長された。ストルイピンの死後,しだいに農民・労働者の運動は激しさを加えた。1912年4月4日,シベリアのレナ鉱山で起こったストライキの労働者射殺事件に端を発し,労働運動は“沈黙の氷を破り”暴風となって荒れ始めた。スト参加者は1911年の10万人が,1912年72万人,1913年86万人,1914年前半だけで150万人へと増大した。農村では富農対貧農の対立が表面化しつつあった。他方,資本主義産業の発達は,産業ブルジョワジーの台頭を促しその政治勢力を増大させた。1912年11月に召集された第4国会では立憲民主党やその他の反政府党が議席を増し十月党も反政府の態度を示した。彼らは立憲民主制を求め言論・集会・信仰の自由を主張した。1914年7月に始まった第一次世界大戦はしばらく革命運動を沈静化させた。しかし,1916年末になると戦争の重圧は国民生活を圧迫し,首都ペトログラードでも食料・燃料・日常生活必需品が欠乏,諸物価は高騰した。1916年中に1,284回のストライキが起こり,参加人員100万人を数え,1917年1月と2月で1,330回のストライキ,参加人員70万人に達した。農村は働き手を失い生産高は戦前の75%に落ちた。鉄道は軍隊の輸送にさえ間に合わず,滞貨は山積,前線では敗北が続き,召集された数百万の兵隊も後方で無為にその日を過ごしていた。すべての可燃物が発火点に近づきつつあった。こうしたとき社会の上部では単独講和により帝政安定をはかる政府宮廷派と,立憲君主政により戦争継続をはかる産業資本家の国会派との対立が激化していた。両者の対立は1915年における戦局の悪化以来目立ちつつあったが,1916年夏,国会派は立憲民主党ミリューコフを中心に憲法制定を要望し政府と相対した。同年末,政府宮廷派の黒幕ラスプーチンが暗殺されたが,これは両派の対立の深刻化の表れであった。時に,1917年2月14日,国会が開かれ両派の争いはその熾烈の度を加えた。

二月革命】1917年2月23日は国際婦人労働日で,多くの労働者がデモやストライキに出,首都の各所で食糧品店が襲われるという事件が起こった。24日,この傾向は広まり約20万人の労働者がそれに参加した。25日,ストライキの拡大・騷擾の白熱化が見られ市中に銃声が聞かれた。26日の日曜日,労働者は市内に殺到し軍隊にも反乱が起こり蜂起は全市に及んでこの日は第2の血の日曜日となった。国会議長ロジャンコは形勢の重大を告げ新政府組織の必要を,当時モギレフにあったニコライ2世に打電した。しかし,ニコライはそれを国会派の野心に発するものと考え,逆に国会に対し休会を命じた。27日,軍隊の動揺は激しく新聞は発行を停止,兵器廠・監獄・ペトロパヴロフスク要塞も革命側の手に落ちた。帝政最後のゴリツィン内閣は事態収拾を断念,政権を放り出した。一方,解散命令にかかわらず議員たちは非公式に臨時国会委員会を開き,事態収拾と政権獲得の方法について論議を始めた。また,反乱した労働者の代表ソヴィエトも召集され,国会委員会とソヴィエト内のメンシェヴィキ・社会革命党の幹部との交渉も続けられた。こうして3月1日,リヴォフ公を首相とする臨時政府が成立,立憲民主党ミリューコフが外相,十月党のグチコフが陸海相,ソヴィエトから社会革命党のケレンスキーが副首相兼法相として加わった。一方,モギレフにあったニコライ2世は,27日,首都の情勢悪化の報告に接し,南西方面司令官イヴァノフに帰京を命じ自らも28日モギレフを離れたが,イヴァノフ軍は進軍せず皇帝列車も前進を阻まれ,3月1日北方戦線司令部のあったプスコフに到着,革命鎮圧を断念した。2日夜,国会からグチコフらが到着し,皇帝は弟ミハイル大公への譲位証書に署名,3日そのことを聞かされたミハイル大公は,ケレンスキーの圧力もあり,即位を辞退してすべてを憲法制定議会に委ね当面の問題を臨時政府に託した。

二重政権】臨時政府が発足したものの,ソヴィエトは解散されずいわゆる二重政権状態が生まれた。3月1日,ソヴィエトは臨時政府の許可なく「命令第1号」を出し,兵士ソヴィエトを組織すること,ソヴィエトの命令は国会軍事委員会に優先すること,武器の管理は兵士ソヴィエトに委ねられることを命じた。この命令は軍隊内における将校の指揮権を弱め軍隊に革命を広めた。臨時政府は当面の政務に忙殺され,すべての改革を憲法制定議会開催まで延期,ただ戦争問題は放置することを許されず継続方針を明らかにした。時に4月3日夜,レーニンはスイスからペトログラードに帰り,戦争の即時停止・革命の社会主義革命への移行・臨時政府の打倒などの10カ条のテーゼを発表,“すべての権力をソヴィエトへ”のスローガンを掲げ活発に行動を開始した。こうしたなかで,臨時政府は5月4日,ソヴィエト側から強い批判を受けていたグチコフミリューコフらを罷免,メンシェヴィキ・社会革命党から数名の大臣を入閣させ政局の安定をはかった。6月3日第1回全ロシアソヴィエト大会が開かれ,メンシェヴィキらは過半数を占め,臨時政府はこの大会の支持をも得た。しかし,臨時政府に対するボルシェヴィキの反対運動は,6月18日の50万の労働者・兵士を動員したデモとなり,次いで7月3日の反政府武装デモとなった。4日には蜂起隊と政府軍間に戦闘が行われ翌日まで続き,四百余人の死傷者を出した。蜂起を鎮圧した政府はレーニンらの逮捕を命じ,ボルシェヴィキへの弾圧を強化するとともに対ドイツ6月攻勢敗退の報のなかで時局を乗り切るため,7月8日,ケレンスキーを首相とし内閣改造を行った。第2次連立政府は“外敵と闘争し反革命より国家を守る政府である”と宣言し7月24日発足した。

コルニロフ事件とボルシェヴィキ勢力の増大】1917年7月18日,臨時政府はコルニロフ将軍を最高総司令官に任命,軍隊の刷新をはかったが,8月14日,全ロシア国家会議でコルニロフは,戦闘部隊内での政治的集会の禁止・前線の兵士ソヴィエトの解散・軍紀の回復を求め,24日第三騎兵軍団に首都進撃を命じ,内閣の辞職・一切の軍事的政治的権力の引き渡しを要求した。27日,ケレンスキーは首都ソヴィエトの左翼グループの助けを求めコルニロフ軍と戦う準備を進めた。一方,鉄道従業員はコルニロフ軍の輸送を拒み,電信手はその命令を伝達せず,コルニロフの軍事行動は失敗し彼自身も9月1日逮捕された。この反革命との闘争においてボルシェヴィキは指導権を握り,全国に檄をとばし赤衛隊を結成,防衛に努めた。七月事件により逮捕されていたボルシェヴィキの指導者たちも釈放され,ボルシェヴィキに加わる者も増大した。7月当時,ソヴィエト内で10%だったその勢力も9月には半数以上となった。当時,ロシアの経済状態は悪化の一途をたどっていた。税収入は二月革命以後半減し,それを補うため紙幣が乱発されて諸物価は高騰,工業生産も二月革命時の7割に落ちていた。企業閉鎖・賃上げ要求ストライキも相次いだ。農村では土地の不法獲得・収穫減が見られ,輸送の無秩序と相まって食糧危機が起こった。軍隊への給与も落ち士気は低下,加えてコルニロフ事件以後,兵士と将校との間の離反も目立った。このような状態は,即時講和・農民への即時土地分配・労働者による工場管理・パンと土地と平和を与えない臨時政府打倒を訴え,強力な組織をもつボルシェヴィキなどの勢力増大を導いた。

【十月革命】ボルシェヴィキの勢力増大に対し,ケレンスキーは憲法制定議会の召集を急ぎ,その選挙を11月12日とし,9月25日最後の内閣改造を行い体制を固め10月7日予備議会を召集した。7月事件以後フィンランドに亡命していたレーニンはこの日密かにペトログラードに帰ったが,10日党中央委員会を開き,武装蜂起を決定,それを実行すべき軍事革命委員会を組織した。16日党中央委員会拡大会議では,武装蜂起の日を10月25日の第2回ソヴィエト大会の直前と定めた。20日夜,ソヴィエト軍事委員会は首都および近郊の守備隊との連絡・統制のため政治委員を任命,翌日これを派遣して〈今後一切の軍命令は政治委員の副署を要する〉と布告した。一方,ボルシェヴィキは革命の主力となる赤衛軍を増強(20日までに2万人以上)と,その訓練・武器の製造・食糧の準備も整えた。臨時政府はこれに対し,10月24日未明,ボルシェヴィキ党機関紙発行所を襲撃,彼らの武装蜂起への呼びかけを抑えようとした。ボルシェヴィキは直ちに中央委員会を開き行動を開始した。政府は大本営に救援部隊の急派を命じたが,部隊は到着せず,首都の各部隊もボルシェヴィキ側に投じた。ペトロパウロフスク要塞の守備隊がボルシェヴィキ側に投じ武器を提供したことは赤衛軍を強化した。この日のうちに,中央電信局,都心と労働者街をつなぐネヴァ川の橋梁の九分通りまで赤衛軍の手に落ち市内の要所要所にその歩哨が立った。夜半,レーニンは党本部のあるスモールヌィイ女学校に入り本格的な軍事行動をとった。25日朝までに市内の主要建物はことごとく赤衛軍に占領され,午前10時,軍事革命委員会は,臨時政府の打倒を告げ国家権力が革命委員会の手に移ったことを布告した。午前11時,ケレンスキーは救援軍を迎えるべく冬宮を脱出したが,赤衛軍は冬宮包囲網を縮め午後9時総攻撃を開始,5時間の戦闘の後,26日午前2時これを占領し,残っていた臨時政府の閣僚をことごとく逮捕した。

【ソヴィエト政権の誕生】25日深夜,第2回全ロシア=ソヴィエト大会が始まったが,メンシェヴィキと社会革命党右派が退場した後,26日午前5時政権はソヴィエトが掌握すると宣言された。同時にソヴィエト政府すなわち人民委員会議の創設が定められた。議長レーニン・外務トロツキー・内務ルイコフ,教育ルナチャルスキー・民族スターリンがそのメンバーであった。大会はまた「平和についての布告」「土地についての布告」を採択した。無併合・無賠償の即時講和,地主所有の無償廃止と土地国有化の布告である。こうして大会は10月27日夜明けに全日程を終了した。10月30日,首都の士官学校生徒の一団は反ボルシェヴィキの軍事蜂起を起こしたが失敗,モスクワでも27日士官学校生徒を主力とする義勇軍がクレムリンにより反乱したが11月2日鎮圧された。ボルシェヴィキは首都とモスクワを支配下に治め,全国各地でも地方ソヴィエトを通じて支配権を握った。ケレンスキーが救援を求めたクラスノフ軍も31日敗退し,最初の反撃の芽も枯れた。ボルシェヴィキは兵士ソヴィエトを通じて軍隊の実権を握り,各地でドイツ軍と休戦協定を結び兵士は帰郷し始めた。11月9日総司令官ドゥホーニンは罷免され,一伍長のクルイレンコが司令官に任命された。ボルシェヴィキはその政策遂行の手段として,12月7日全ロシア非常委員会(チェカ)を設け,反革命分子を厳しく取り締った。反対派はソヴィエト政権の合法性を否認し憲法制定議会の合法的存在を主張,11月12日の選挙で過半数を占めた。ボルシェヴィキは総議席703の内168しか得られなかった。1918年1月5日開かれた国民議会では社会革命党右派のチェルノフが議長となり,ソヴィエト政権を否認する立場をとったので,ボルシェヴィキは議会を脱退,7日深夜,武力で議会を解散し,10日第3回全ロシア=ソヴィエト大会で,この措置を承認,事実上ボルシェヴィキ以外の一切の政党を禁じソヴィエトが全権力を握った。

〔参考文献〕カー,宇高基輔ほか訳『ボリシェヴィキ革命』全3巻 1967〜1971,みすず書房

長尾久『ロシヤ十月革命』1972,亜紀書房