●ロシア
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「ロシア」という語は種々なる意味をもつが,一般にはソ連邦の旧名もしくは通称として用いられる。その歴史は,(1)先キエフ時代(〜9世紀中ごろ),(2)キエフ時代(9世紀中ごろ〜13世紀初め),(3)蒙古支配時代(13世紀初め〜15世紀末),(4)モスクワ時代(15世紀末〜17世紀初め),(5)ロマノフ朝時代(17世紀初め〜20世紀初め),(6)ソヴィエト時代(20世紀初め〜)に時代区分されるが,1917年のロシア革命までのその歴史は以下のごとくである。【先キエフ時代】黒海北岸の草原地帯には,古くから東の方,中央アジアの草原地帯から西の方,ハンガリーの平原をめざしたアジア系遊牧民族の国家が興亡した。キンメリア人(〜前8世紀),スキティア人(スキタイ人,前8世紀〜前3世紀),サルマティア人(前4世紀〜4世紀初め)の国家がそれで,彼らは南のギリシア・ローマとの関係をもちながらその歴史を展開した。3世紀には,北からゲルマン系のゴート人がこの草原地帯の西部に侵入,次いで4世紀末,東からトルコ=モンゴール系のフン人が侵入して,サルマティア人を従え,ゴート人を西に追ってハンガリーに入って大帝国を建てた。フン帝国瓦壊後は,その後裔のブルガリア人(6世紀〜7世紀末),トルコ系のハザール人(7世紀末〜10世紀末)が,黒海北岸に勢力を占めた。ロシア史に大きな役割を果たしたスラヴ人の起源は明瞭でないが,一般には黒海の西北方,カルパティア山脈の北側にあり,5世紀後半のフン帝国瓦壊後彼らは四方に移動し,そのうち東スラヴ人は6世紀〜8世紀にドニエプル川流域に移住したとされる。彼らが古くからこの地の土着民であったとする説もある。9世紀,北からノルマン人がロシアに侵入し始め,862年ごろ,リューリクに率いられた一隊が北ロシアのノヴゴロドを中心にその地のフィン系・スラヴ系の住民を征服,国を建てた。ロシアの古名と言われる「ルーシ」という語が,このノルマン人をさすか否かで18世紀以来,いわゆる「ルーシ論争」が行われてきたが,一般にはリューリクのノヴゴロド公国建設をもってロシアの建国とされる。
【キエフ時代】伝承によれば,リューリクの死後,その子イーゴリを擁し一族のオレーグが南下して,882年にキエフ大公国を建てたとされるが,ノルマン人のキエフ地方での勢力確立の時期はともかくとして,彼らがビザンツの富に憧れ掠奪と通商を目的としロシア地方に侵入,住民から貢物をとり,ドニエプル水系を支配しキエフをその基地としたことは間違いない。イーゴリの子スヴャトスラフ(在位945〜972)はハザールを滅ぼしビザンツに遠征するなど外征に終始したが,その子ウラジミル1世(在位980〜1015)は,各地に一族を封じて政治体制を整えギリシア正教を受容(988年),外ハザール人に代わったペチェネグ人に対し南部国境を固めた。彼の子ヤロスラフ1世(在位1019〜1054)の時代には,ギリシア正教キエフ府主教会の建立,ロシア最古の法典『ルースカヤ=プラウダ』の編さんなども行われ,ビザンツ文化の影響下,キエフ,ロシアは最盛期を画した。その後,諸地方の生産力も増し諸公の領地経営が進むにつれ,諸公間の内紛が強まり,外ペチェネグ人に代わったポロヴェツ人の襲来,十字軍に伴う地中海貿易進展によるドニエプル商業の衰退により,キエフ-ロシアの統一は破れた。ときに,北東ロシアのウラジミル公アンドレイ=ボゴリュープスキー(在位1158〜1174)が1169年キエフを襲いこれを壊滅させた。以後ロシアは全くの封建的分裂の時代に入る。
【蒙古支配時代】13世紀初め,チンギス=ハンによって統一されたモンゴル人(ロシアではタタール人と呼ばれた)は南ロシアに侵入,カルカ河畔に南西ロシア諸公とポロヴェツ人の連合軍を撃破(1223ごろ),次いで1237〜1238年,バトゥに率いられて北東ロシアを征服,1240年キエフを襲い後ポーランド・ハンガリーに侵入,1242年にはヴォルガ下流のサライにキプチャク(金帳)=ハン国を建て,ロシア地方から貢物をとった。一方,西の方では13世紀初めごろからバルト海沿岸のリトアニア人が,ドイツ騎士団の脅威のもと民族的統一をなしつつあったが,13世紀後半,西ドヴィナ川流域やドニエプル川上流域に侵入,14世紀にはかつてのキエフ公国の大部分を配下に治めキプチャク=ハン国と対立した。蒙古人はロシア支配に当たり当初自ら徴税していたが,住民の激しい反抗もあり,13世紀末,ウラジミル大公にその徴税権を与えた。北東ロシアの諸公なかでもトヴェリとモスクワの公は,このハンの特許状(ヤルルィク)をめぐり激しく争った。モスクワ公国は,1271年ごろ,ウラジミル大公アレクサンドル=ネフスキー(在位1252〜1263)の子ダニイルに与えられたことに端を発するが,その子イヴァン1世(在位1325〜1341)は,ハンの特許状を得てウラジミル大公となり,リトアニアと結ぶ宿敵トヴェリを打倒,近隣諸公を従えモスクワ大公国発展の基礎をつくった。彼は,1299年にキエフからウラジミルに移っていたギリシア正教府主教座もモスクワに誘致,ロシア地方のギリシア正教住民への影響力を強めた。モスクワ大公国の強大化ときにはその納貢拒否に対し,1380年,キプチャク=ハン,ママイはリトアニアと結びモスクワを襲撃,イヴァン1世の孫ドミトリー=ドンスコイ(在位1359〜1389)はこれをドン河畔のクリコヴォに破った。これによりモスクワ大公の権威は上がったが,蒙古人はその後再びモスクワを襲い徴税を続けた。ときにリトアニアがドイツ騎士団の攻撃に対し1386年ポーランドと合体,ローマ=カトリックに改宗したことはギリシア正教住民をモスクワに結びつけた。また,キプチャク=ハン国も,14世紀末ティムール帝国の攻撃を受け敗北,内紛により15世紀中ごろには分裂した。
【モスクワ時代】1453年,東ローマ帝国滅亡とともに,コンスタンティノープルのギリシア正教総主教座が消失したことは,モスクワ府主教座の地位を高めた。モスクワ大公イヴァン3世(在位1462〜1505)は1472年東ローマ最後の皇帝の姪と結婚,その後継者ギリシア正教徒の保護者を自任,近隣諸公国を買収・武力により服属させ,1478年ノヴゴロド共和国を併合してほぼ北東ロシアを統一した。彼は,キプチャク=ハン国の分裂に乗じハンへの貢納をやめ,1480年,これに対するアフマトの率いるキプチャク軍とオカ川支流ウグラ河畔に対峙した。しかしアフマトの期待したリトアニアの援軍も来着せず,背後にクリミア=ハンの攻撃を受けキプチャク軍は引き返し,モスクワは剣を血塗ることなく,200年にわたる蒙古支配から離脱した。イヴァン3世は,統治に当たり旧諸公たちを門地の上下により官職の上下を定める「門地制度」を採用,旧諸公たちは貴族会議を構成して大公との共同統治を行ったが,イヴァンは彼らを抑え中央集権化に努め,「全ルーシの君主」と称しときには「ツァーリ」(皇帝)の称号を用いさえした。16世紀中ごろに出たイヴァン4世(雷帝,在位1533〜1584)は,1547年正式にツァールの称号をとり,内には貴族勢力をそぎ,代々モスクワ大公に仕えてきた士族を保護し,使らへの封地の給付その収入を確保してやるための農民の土地への緊縛,つまり農奴化の方向のなかに中央集権体制を整えた。そして外には,キプチャク=ハン国分裂後にできたヴォルガ川左岸のカザン=ハン国(1552),下流のアストラハン=ハン国を征服し(1556),次いで,ドン=コサックのエルマークが征服した(1581)シベリア=ハン国をも併合,東方進出のもとを開き,西に対してはリトアニアと戦い(1558〜1582)バルト海進出をはかった。リトアニア戦争は結局敗北に終わったが,イヴァン雷帝の皇帝・士族的・農奴的体制樹立の機会となった。雷帝は緒戦における敗戦は貴族の背信によるとして,1564〜1572年,皇帝直属の士族特別隊(オプリチニキ)を組織,貴族大弾圧を行った。しかし,この急激な改革は,彼の死後十数年を経て,1598年王朝が断絶すると,貴族の反抗,相次ぐ農民抑圧の諸立法に抗して逃亡や暴動をくり返していた農民の,ボロトニコフ反乱(1606〜1607)への結集・偽称皇帝ドミトリーの出現・外国の干渉という「混乱」(スムータ)を招いた。
【ロマノフ王朝の成立】「混乱」のなかにポーランド軍は一時モスクワを占領,ロシアは滅亡の危機にさらされたが,1610年,総主教ゲルゲモンの呼びかけで士族・商人・コサックから成る国民義勇軍が組織され,1612年10月モスクワを奪回,翌1613年2月全国会議を開いて,イヴァン4世の姻戚ロマノフ家のミハイル(在位1613〜1645)を皇帝に選んだ。「混乱」のなかでの多くの貴族の没落,士族・商人勢力の増大は,雷帝体制の実現を約束した。王朝選出に力のあった全国会議も,地方自治の廃止に伴い地域代表会議からモスクワ在住者による特定問題審議機関に変貌,17世紀後半にはしだいに召集されなくなった。また,「混乱」のなかで生じた勝手な封地占有・逃亡農民の増加に対し,政府は,封地所有者の奉仕義務の明確化・逃亡農民取り締まりの強化を図った。逃亡農民追捕期間は,1597年の5年,1606年の15年から,1641年には無期限とされた。また1649年には,『法典』(ウロジェニエ)が制定され,農奴制は法制化されるに至った。一方,モスクワ府主教座は1589年,総主教座に昇格していたが,混乱時代における総主教ゲルゲモンの行動,皇帝ミハイルの父フィラレートの摂政および総主教としての政教両権の掌握は教権を強大化していた。アレクセイ帝(在位1645〜76)は,「大君」と称し国政にも介入した総主教ニコンとの争い(1658〜1666)に勝ち,教会は皇帝に従順たるべきことを確認させた。初期ロマノフ王朝は,内に士族・商人を保護し,教権をも屈服させて中央集権体制を整え,1670〜1671年の農民・コサックのステンカ=ラージンの乱を鎮圧して農奴制を一層強化するとともに,外はポーランドと戦い(1617〜1618,1632〜1634,1654〜1667年),スモレンスクおよびウクライナ東部を獲得,東はシベリア進出を進め全シベリアをその権力下に入れた。
【帝政の確立】雷帝体制・ロシア絶対主義の確立は,ピョートル1世(在位1682〜1725)によって達成された。ピョートルの親政は,黒海沿岸のトルコ要塞アゾフ攻撃(1695〜1696)をもって始まったが,次いで彼はバルト海進出を企て,ポーランド・デンマークと同盟,スウェーデンに対する北方戦争(1700〜1721)を行った。北方戦争は,ピョートルの改革の機会を与えた。彼は,兵制・財政の改革を行い,商工業の保護育成・行政の中央集権化を図るとともに,1721年には総主教座を廃止,宗務院を設け教権を抑え,また,1714年には封地の世襲化・一子相続制を定め士族の地位の安定化に努め,1722年には官等制による士族の奉仕義務を明確にし官僚組織を形成,一方,士族の農奴に対する権限を強化した。1718年の人頭税設置は,農奴身分の固定化と農奴制の拡大を意味した。ピョートルはまたネヴァ川河口にペテルブルクを建設,1713年ここに遷都してヨーロッパ文明の輸入に努め,教育・文化の普及をはかり,1721年,北方戦争に勝つと,皇帝(インペラートル)の称号をとり国号をロシア帝国と改め,元老院より大帝の称号を贈られた。東アジアにおける黒竜江沿岸地方への進出は,1689年ネルチンスク条約で清国に阻止されたが,ロシアはその後カムチャツカ半島を征服(1697),1725〜1743年,ピョートルの遺命により,ベーリングの北方大探検も行われた。中央アジアでもその征服事業は進んだ。ピョートルの死後,強勢化した士族(新貴族)は勝手な皇帝擁立を行いロシアの政治は乱れたが,エカチェリーナ2世(在位1762〜1796)は,貴族会議の設置を認めず元老院勢力をそぎ,貴族の奉仕義務を再確認する一方,反乱農民への発砲,農奴を苦役に出す権利を地主に与え,1767年には農奴が地主を訴えることを禁ずるなどして社会的諸勢力均衡の上に,絶対専制権力を高め,法典編さんの準備や教育の振興・病院の設立・文芸の保護などの啓蒙政治を行った。農民への圧迫は,1773〜1775年のプガチョフの乱を呼びおこしたが,その後政府は地方行政を改革して中央の指令が行き届くようにし,1785年には士族に奉仕義務の解除そのほか種々の特権を認めて,農奴に対する取り締まりを強化した。エカチェリーナの時代,ロシアはポーランド分割(1772,1793,1795)・トルコとの戦争(1768〜1774,1787〜1792)・クリミア=ハン国の併合(1783)によって領土を拡大,バルカン進出の足場も得た。東にあっても,アリューシャン列島・千島列島への進出を強化,やがてアラスカにも進出して,19世紀初めロシアは一大北太平洋勢力となった。
【帝政の防衛】ロシアのヨーロッパ化は,その自由思想の流入をも伴った。1790年,すでにラディシチェフは『ペテルブルグからモスクワへの旅』を書き農奴制を批判したが,政府はフランス革命に圧迫を加え,内には出版検閲の強化・士族の奉仕義務の復活・農奴の賦役の制限などによりその体制の維持に努めた。アレクサンドル1世(在位1801〜1825)の治世の初期には,地主に農奴解放権を付与し,あるいはスペランスキーによる国家改造計画案の作成(1803〜1809)などの自由主義的施策も行われた。対ナポレオン戦争(1812〜1814)によって国際的発言力を増したロシアは,神聖同盟提唱国として活躍するが,国内ではフランスの自由の空気に接し帰国した青年将校たちを中心に農奴解放を求める声が高くなっていた。彼らは,1816年「救済同盟」を結成,翌年「福祉同盟」と改称し運動を行った。この同盟は1821年,政府の圧迫もあり解散したが,同3月,キエフにペステリを中心とする「南部同盟」,1822年秋にはペテルブルクに「北方同盟」がつくられ,共和制あるいは立憲君主制をめざした。彼らは,1825年12月14日,新帝ニコライ1世(在位1825〜1855)への忠誠宣誓を拒否して反乱を企てたが鎮圧された。いわゆる「デカブリスト」(十二月党員)の反乱である。ニコライ1世は,デカブリストたちを峻烈に弾圧する一方,『ロシア法典』を制定(1832,1842,1857),政治体制を整備・産業の保護育成に努め,用益税の引き上げの禁止など農奴制の制限も試みたが,政治警察の拡充をはかり厳しい反動政治を行った。自由主義者の政治活動が禁止されるに至ったとき,その思想は哲学・文学の分野で開花した。1840年代には,スラヴ主義(スラヴォフィール)と西欧主義(ザパトニチェストヴォ)の二つの思潮が興隆し,それぞれの立場からロシア改造の声を上げた。
【帝政の動揺】19世紀前半,ロシアはギリシア独立戦争に干渉,バルカンへの進出を図るとともに,1830年ポーランドに起こった独立運動を抑圧,1848年オーストリア三月革命の際のハンガリーの独立運動にも大軍を送ってその鎮定に力を貸すなど保守陣営に立ち行動したが,1853年には宿願の南下策の成就を願ってクリミア戦争を起こした。しかしクリミア戦争の敗北は,農奴制と産業の発達の同時存在という矛盾を爆発させた。国内には自由と啓蒙の精神が渦を巻き,遅れたロシア社会改造の声が上がり農民反乱も頻発した。産業の発展のため,また遅れた農奴的農業経営を資本主義的経営に移行させるためにも,農奴制廃止が望まれた。ここにアレクサンドル2世(在位1855〜1881)は,1861年2月19日,農奴解放令を出し,また行政・司法・兵制・財政にわたる一連の国民国家建設改革を実施した。しかし,農奴解放によって農民に与えられた土地は小さく土地賠償金も高く,しかもミール(村落共同体)が存置され土地は私有地とならず,農民はその構成員として種々制限を受け相変わらず生活に苦しんだ。一方,農奴解放による農業の資本主義化は富農による農業生産の増大をもたらし,また,国内市場の拡大・保護政策によってロシア資本主義も急速に発展した。しかし,それは先進国に比べて立ち遅れが著しかったにかかわらず,生産集中度が高く資本家の生産独占を導いた。しかも,その資本の多くは外国資本であり,ロシア資本はふるわずそれはロシアにおける市民勢力を力弱いものとしていた。その上,事実上の農奴制の残存は労働条件を劣悪なものとし,生産集中は労働運動を大規模化した。また,彼らの多くは農村からの出稼人であったので,労働運動と農民運動は強く結びついていた。それに革命思想が作用した。
19世紀には,ナポレオン戦争後の民族的昂揚のなかに,ロシア国民文学・国民音楽が生まれ,文学ではプーシキン以後,ゴーリキー・ツルゲーネフ・ドストエフスキー・トルストイ・チェホフらの文豪が出,音楽ではグリンカ以後,ムソルグスキーら五人組,チャイコフスキーらの巨匠,絵画ではレーピン,自然科学ではパブロフ・メンデレーフらが出て,ロシア文化は隆盛を見たが,一方,19世紀後半になると,革命思想も勃興し革命への道を用意した。農奴解放の不徹底,1863〜1864年のポーランド独立運動の弾圧のなかに,まず,「人民のなかへ」(ヴ=ナロード)行き,農民を啓蒙してその力で専制体制を打倒しようとする運動が起こった。彼らは,1876年「土地と自由」結社を組織,弾圧の強化のなかでテロにより革命を達成しようとする「人民の意志派」と,経済体制の変革を第一とする「黒土再分割派」に分裂,「人民の意志派」は1881年アレクサンドル2世を暗殺した。政府は弾圧を強化する一方,土地賠償金の軽減・人頭税の廃止・工場管理局の設置でこれに臨んだが,ロシア産業の発展により成長した労働者階級の運動は活発化する一方であった。こうした情勢のなか,スイスに亡命していた「黒土再分割派」の人々により,1883年,「労働解放団」が組織され,1898年にはロシア=マルキストたちはミンスクで「ロシア社会民主労働党」を結成した。一方,ナロードニキの「人民の意志派」も,1901年,「社会革命党」を組織した。
【帝政の没落】19世紀後半,ロシアは資本主義の急速な発展に伴う矛盾を内に抱えながら,バルカンの汎スラヴ主義運動に支援を与え,三帝同盟の体制下,露土戦争(1877〜1878)を遂行するなどして南下策を進め,中央アジアでも,1868年,ボハラ=ハン国を,1873年,ヒヴァ=ハン国を服属させ,1886年コーカンド=ハン国を併合,東アジアでも清朝から黒竜江左岸の地,沿海州を獲得,1875年(明治8)日本と交渉して南樺太を領有した。ただアラスカは1867年これをアメリカに売却したが,ロシアは一大世界強国として東に西に進出を続け,1905年には日本と,1914年にはドイツ・オーストリアと衝突するに至った。20世紀初頭以来の革命的運動の昂揚は,日露戦争最中の1905年の第一次ロシア革命となり,ロシアには国会(ドゥーマ)が開かれ議会政治が生まれた。しかし,それは名のみのもので専制体制に変わりはなかった。革命後首相となったストルイピンは,1906年農業改革を行い土地賠償金を全免,ミールを解体,自作農を創設して彼らを革命の防壁たらしめようとした。しかし,自作農となった200万戸のうち6割は農業の資本主義的経営に敗れ都市労働者や富農の雇傭人となり,農村では貧農対富農という新しい対立関係が生まれ,都市ではミールと切り離された労働者の階級意識が助長された。1891年の露仏同盟,1907年の英露協商の体制下に,1914年に始まったドイツ・オーストリアとの戦争,第一次世界大戦の重荷は,ついにロシア帝政の諸矛盾を爆発させ,1917年2月のロシア革命をもたらした。二月革命のなか,3月2日,皇帝ニコライ2世(在位1894〜1917)は,弟のミハイル大公に譲位したが,翌日ミハイルは即位を辞退,ここに,300年にわたるロマノフ王朝の支配は終わりを告げた。その後,この二月革命のときに生まれた労働者・兵士(農民)ソヴィエトの一部が臨時政府を倒し,政権を握るロシア十月革命に至る。
〔参考文献〕クリュチェフスキー,八重樫喬任訳『ロシア史講話』1〜5,1979〜1983,恒文社
木崎良平『ロシア=ソヴィエトの歴史』1959,雄山閣出版
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