●ロカルノ条約 ロカルノじょうやく
ヨーロッパ スイス連邦 AD1925
1925年10月16日,スイスのロカルノにおいて,ヨーロッパ諸国間で結ばれたいくつかの条約や協定で,正式に調印されたのは12月1日。全体としては,ヴェルサイユ条約の確認やヨーロッパの安全保障に関する取りきめであるが,なかでも,ドイツとフランス・ベルギーの国境を確認し,ラインラントの非武装を決めたものが重要で,これだけをロカルノ条約と呼ぶこともある。【協調の精神】普仏戦争,第一次世界大戦と,半世紀にも足りないあいだに,2度もドイツの攻撃を受けたフランスはドイツに対する不信感をもち,憎悪の念さえもっていた。国際連盟の設立も,フランスの対独感情を清算させるものではなく,一時は,イギリス・アメリカとの同盟を考えたほどであった。1920年〜21年,第一次世界大戦の結果,誕生したユーゴスラヴィア,チェコスロヴァキアやルーマニアを支援して,小協商をつくり,ベルギー,ポーランドなどと同盟関係を結んだのは,ドイツの孤立化を目標にしたもので,1923年1月以来のルール占領もフランスとドイツの関係を悪化させるものであった。
このような対立的雰囲気も,終戦から時間がたち,経済復興が進んでくると変化がみられるようになってきた。ドイツ首相に就任したシュトレーゼマンはいわゆる消極的抵抗を中止させ,西欧協調政策をうち出した。これに応じて,アメリカの銀行家ドーズを長とする経済専門委員会は,1924年9月にドーズ案を作成して,賠償問題の解決にのりだした。
ドイツ外相になっていたシュトレーゼマンを中心に,ドイツ政府は,1925年2月9日,ラインラントの相互保障の考え方を示した。フランス外相ブリアン(1925年4月に外相)がこれに応じ,交渉と協定による両国の安全を共同決議した。イギリスの A. N. チェンバレン外相もこれを支持し,イタリアをさそった。こうした経過をもって,1925年10月5日から16日にかけて,ロカルノ会議が開催された。
【条約】ロカルノ会議の結果として結ばれた条約は次のようなものである。第1は,フランス-ドイツおよびベルギー-ドイツ間の相互保障条約で,これによって,ドイツの西部国境がヴェルサイユ条約に定められたとおりに決定した。この条約には,フランス・ベルギー・ドイツが調印したが,イギリス・イタリアも保障国としての調印をした。この条約はラインラントの非武装化も含まれていた。第2は,ドイツ-ポーランド,ドイツ-チェコスロヴァキア,ドイツ-ベルギー,ドイツ-フランス間の仲裁協定が成立した。第3に,フランスはポーランドおよびチェコスロヴァキアとそれぞれ相互援助条約を結んだ。援助の発動はドイツによって攻撃された場合となっている。
【ロカルノ精神】ドイツに対して不信の念をもっていたフランス,チェコスロヴァキア,ポーランド,また,ヴェルサイユ条約に強い不満をもっていたドイツが共同の席につき,ヴェルサイユ体制を確認し,ドイツの西欧協調の成果として,ヨーロッパの国際協調がもたらされた。また,かつてアメリカ大統領ウィルソンが指摘した,2国間の秘密主義的な旧外交に代わって,ドイツ-フランス,ドイツ-ベルギー国境の安全をイギリスやイタリアも加わって保障したことは,従来の外交の姿を変え,交渉と協調を集団安全保障するもので,ロカルノ精神として,もてはやされた。ドイツはこれを機に,1926年には,フランスの支持を受けて,国際連盟に加盟し,その定数を増加させて常任理事国となり,1928年8月には,ケロッグ=ブリアン条約にまで発展していき,1929年には賠償に関するヤング案が成立した。
【問題点】ロカルノ条約はドイツの西方協調政策の頂点をなすもので,ドイツの西部国境は解決されたが,東方での国境については,ポーランドやチェコスロヴァキアに,なお不安を残し,それがフランスとの相互援助条約となった。1936年3月,ヒトラーがラインラント進駐を行ったことで,この条約はドイツによって一方的に廃棄されることになった。