●労働党(イギリス) ろうどうとう
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社会民主主義の立場にたつイギリスの労働者政党で,保守党とともに現代イギリスの2大政党の一つ。【成立と発展】強力な労働者政党を組織するためには,社会主義者と労働組合との同盟が必要であるという信念を抱くケア=ハーディらの指導により,1899年の労働組合会議において,次の議会に労働議員の増加を確保する手段と方法とを考えるため,社会主議団体と労働組合の代表者会議を召集すべしという決議がなされ,翌1900年にこの決議にもとづいて,65の労働組合と,独立労働党・社会民主連盟・フェビアン協会の三つの社会主義団体の代表者による会議が召集され,そこで労働代表委員会が組織された。これが労働党の起源である。その後それは政治資金を設置するなどし,しだいに政党の形態を整え,1906年の総選挙で29名の当選者を出す大勝利をおさめて,労働党と改称。第一次世界大戦の際には,ロイド=ジョージの挙国一致内閣に代表を送り,その戦争政策に全面的に協力した。そしてヘンダーソンらの尽力により1918年2月の党大会で,シドニー=ウェッブの起草になる新規約が採択され,従来の団体加盟のほかに個人加盟も認められ,また,生産手段の共有と産業の民主的管理の体制にもとづく労働の公平な分配の確保が党の目的とされた。さらに同年6月の党大会では,(1)国民の最低生活の全般的確保,(2)重要産業の国有化をふくむ産業の民主的管理,(3)社会保障の充実と戦債の償却を可能にする国家財政の根本的刷新,(4)余剰財の公共福祉のための利用という四つの柱からなる「労働党と新社会秩序」なる政策綱領を採択。こうして労働党は社会主義を標榜することになった。
【労働党内閣】党は1923年の総選挙で自由党をしのぎ,保守党についで第2党となり,翌年,自由党の支持を得て,マクドナルドを首班とする第1次労働党内閣を組織。しかしこれは絶えず自由党の牽制にあって,ソヴィエト=ロシアの承認のほかは,とりたてた成果もあげることなく,わずか9カ月で崩壊した。1929年の総選挙では,初めて第1党となったが,議席の過半数を確保できず,再度自由党の協力のもとに同じくマクドナルドを首班とする第2次労働党内閣を組織。これもまた世界恐慌による失業者の著しい増大のもとで,失業給付の削減の是非をめぐって重大な意見の不一致をきたし,なんらみるべき成果をあげることなく,1931年,総辞職を余儀なくされた。第二次世界大戦の際には,保守党のチャーチル率いる連立内閣に加わり,その戦争遂行に全面的に協力。1945年に対ドイツ戦争終了とともに行われた総選挙で,初めて単独で議席の過半数を占め,アトリーを首班とする第3次労働党内閣を組織したが,党の歴史の上では,これが最も大きな成果をあげた。1918年の「労働党と新社会秩序」以来の基本的政策の一つである産業国有化政策を実行に移し,イングランド銀行,ついで石炭産業・海外むけ有線無線通信・電気事業・鉄道・国内水運・ドック・遠距離自動車輸送・ガス事業,そして最後に鉄鋼業を国有化し,同時に国民保険法,産業災害国民保険法,国民扶助法,児童法,国民保健事業法などの制定にもとづいて,国民すべてに“ゆりかごから墓場まで”最低生括を保障する徹底した社会保障制度を実施した。しかし,国有化された産業は全産業の20%にすぎず,したがってこれによってイギリス社会主義が実現したわけではなく,これによって基礎づけられたのはいわゆる福祉国家の体制であった。だがこの体制は,1951年のこの内閣の崩壊以後も引きつづき維持され,労働党は1976年成立のキャラハン内閣のもとで新たに航空機産業と造船業を国有化したが,この体制を越えて進むことはせず,保守党とともにこの体制を維持する基本的な勢力として今日にいたっている。
〔参考文献〕関嘉彦『イギリス労働史』1969,社会思想社
H.ペリング,小川喜一訳『イギリス労働党の歴史』1967,日本評論社