●労働運動(日本) ろうどううんどう
アジア 日本 AD1945 昭和
労働運動が政治や経済上において大きな発言力をもち、社会的な影響をおよぼす組織的な勢力になったのは、終戦後になってからである。戦前の労働運動は弾圧と分裂を繰り返し、労働者の団結権、団体交渉権も保障されていたわけでなく、労働組合が社会的な勢力になれないうちに戦時体制下に消滅させられてしまった。
【戦前の労働運動】明治初期に労働問題が発生しているが、労働運動はまだ自然発生的な段階にとどまり、近代的労働運動に発展するには、産業の発達と社会の諸条件の成熟を必要とした。1897年(明治30)7月、城常太郎、沢田半之助、高野房太郎、片山潜らにより労働組合期成会が創立されて、近代的労働運動の萌芽がみられるようになった。その事業は、労働組合の組織と運営についての指導、示威運動、工場法案の制定促進などであった。期成会の指導により、鉄工組合、活版工組合などが創立されて、会社に待遇改善を要求して、同盟罷業を行った。明治時代の労働運動は、期成会を中心に発展した。改良主義的な労働運動であったが、1900年(明治33)3月に治安警察法が制定され、当時の政府は温和な労働運動をも弾圧した。治安警察法の第17条には、労働組合に加入させたり、ストライキの煽動を禁止、これに違反したときは、6カ月以下の重禁錮、または罰金が課された。これが労働運動に対する圧迫の武器となった。こうして初期の労働運動は急速に退潮し、壊滅したのである。この後、社会主義運動が台頭してきたが、幸徳秋水らのいわゆる「大逆事件」を契機に窒息させられて「冬の時代」に入った。
大正時代の労働運動は、治安警察法第17条の撤廃、労働組合の公認、8時間労働制の実施などの要求をかかげて活動した。この時期の労働運動の再興の中心となったのが、友愛会であった。第一次世界大戦中の好況で日本経済は飛躍的に発展したが、1920年(大正9)に恐慌におそわれた。そのころ労働組合は、サンジカリズム、無政府主義、共産主義の影響を受けた。1922年(大正11)におこった全国的総連合結成の運動は、思想的対立のために失敗した。またサンジカリズムは、1923年(大正12)の関東大震災の際における大杉栄虐殺事件により打撃を受けて、退潮した。その後、共産主義と改良主義の対立が生じた。1924年(大正13)1月、総同盟は宣言を発表して、改良的運動を重視、現実主義へ方向転換した。労働運動は、無産政党の分立をそのまま反映して分裂し、三派鼎立することとなった。つまり総同盟、日本労働組合評議会、日本労働組合同盟である。治安警察法が1925年(大正14)に廃止になり、それと同時に登場したのが治安維持法であった。これは社会主義運動の取り締まりを目的としたもので、主眼は共産党対策におかれた。
1928年(昭和3)3月15日に共産党員・同調者の一斉検挙を行い、つづいて4月10日、労働農民党、評議会、無産青年同盟の3団体を結社禁止処分とした。これにより3団体は壊滅し、以降、共産党の活動は非合法化するにいたった。同年11月には非合法の赤色労働組合である日本労働組合全国協議会(全協)が結成された一方、総同盟は3・15事件後から右翼化した。1931年(昭和6)に日中戦争がおきると、合法的な労働運動は右寄りに再編成されていった。社会民主主義者のあいだに国家社会主義的傾向が台頭した。このころの労働運動は国家社会主義、社会民主主義、合法左翼の3派に分立していたが、1937年(昭和12)に支那事変が勃発したのを契機に、戦時体制に入り、1940年(昭15)に政府は労働組合運動を産報運動に解消させる方針をとり、ここにわが国労働運動は消滅した。
【戦後の労働運動】名実ともに戦後の労働運動の発展は、めざましかった。戦後の占領政策において、労働組合の結成促進は、日本の民主化の重要事項の一つであった。労働者はインフレの進行と食糧不足のもとで、労働組合により生活を守るために労働組合結成に積極的に参加した。労働組合は企業、事業所ごとに結成されて、1945年(昭和20)12月末に509組合、約38万人、翌年12月末には1万2,000組合、約368万人となった。この間、連合国軍の労働組合助長政策は1945年(昭和20)12月の労働組合法の制定、1946年(昭和21)11月公布の新憲法による勤労者の団結権、団体交渉権その他の団体行動権の保障などが具体化された。同年8月、社会党系労働組合指導者を中心に全国中央組織の総同盟が、共産党の指導により産別会議が、さらに同年10月、中立的立場をとる日労会議がそれぞれ結成されて、活動を開始した。産別会議が労働運動の指導権を握り、社会・経済の混乱と労働者の生活不安のなかで、生産管理戦術の採用など、労働争議が多発し、過激化した。このような民間労組の「10月労働攻勢」についで11月に官公庁労組が越年資金・最低賃金制の確立などの要求をかかげて「全官民共闘」を組織し闘争を開始した。これが民間労組と結合し、1947年(昭和22)2月1日を期して全国一斉にゼネストを行うとする「2・1ゼネスト宣言」を発表した。しかしゼネストは、マッカーサー連合国最高司令官の中止命令により中止を余儀なくされた。これを契機に総同盟や産別会議などに、共産党の労働組合支配を排除しようとする、いわゆる「民主化運動」がおこった。1948年(昭和23)7月、連合国軍最高司令官総司令部は、マッカーサー書簡を発し、国鉄・郵政など現業官庁職員の争議権の禁止、公務員法の改正などを指示した。翌年2月に総同盟、産別、民同、国労が参加して全労会議が結成されたが、1950年(昭和25)7月に自由にして民主的な労働運動の展開などを基本とした総評が結成された。1952年(昭和27)10月から11月にかけて実施された炭労、電産の長期ストについて、右派系組合が12月に総評の指導方針を批判する共同声明を発表した。
1955年(昭和30)、総評大会で高野実事務局長の平和勢力論に代わり、総評の主導権を獲得した太田薫・岩井章執行部は、まず全国的産業別統一闘争の展開、いわゆる「春闘」を1956年(昭和31)春から開始した。春闘は経済の好況を背景に年々成果をあげ、その参加規模も拡大した。1957年(昭和32)春闘では、公共企業体等仲裁裁定尊重が確認された。総評は1959年(昭和34)に結成された安保改定阻止国民会議の主導的な役割をにない反対闘争を進めた。安保闘争と同じ時期に、三井三池の闘争が展開された。これは石炭から石油へのエネルギー転換を背景として発生した闘争であった。この争議は、労働組合が無期限ストに突入してストを中止するまで282日に及んだ。三池闘争の敗北は、その後の総評、炭労の合理化反対闘争の方針を、絶対反対から政策転換闘争中心の方針へと転換させるきっかけとなった。毎年の春闘は、高度成長と技術革新の進展にともなう若年労働者を中心に労働力不足の労働市場となり、労働者の賃金、生活水準は向上を示した。1960年(昭和35)以降、中立労連が春闘共闘委員会に参加した。一方、新産別などでも春季に賃上げ闘争を行う単産が年々増えた。さらに、賃上げ要求とともに、労働時間短縮、最低賃金制などを要求項目とした。
1964年(昭和39)4月に貿易が自由化され、開放経済体制に対応するため、労働団体の枠をこえた IMF-JC(国際金属労連日本協議会)が結成されたのである。IMF-JC結成後、労働運動の国際化が急速に進んだ。1964年(昭和39)11月に同盟が発足した。1960年以降、1948年の第1次オイル=ショックまでの労働運動は、大争議もなく、春闘では成果をあげた。その結果、労働者の賃金水準は、ヨーロッパ先進国とほぼ同水準に達した。第1次、第2次(1978年12月)のオイル=ショックは、世界的に不況、インフレ、失業のスタグフレーションとなったが、わが国の状況は比較的安定して推移した。その状況下、わが国労働運動は、社会契約的ないし経済との整合性による労働運動の指向が強まり、賃上げ闘争も実質賃金確保が強調された。1978年(昭和53)春闘は、春闘が開始されて以来2番目に低い賃上げ率(5.75%)に終わり、春闘見直し論などもおきて労働運動に対する危機感が高まった。政策制度要求の高まりのなかで1982年(昭和57)12月に「ゆるやかな協議体」として全民労協が結成された。