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●労働運動(中国) ろうどううんどう

アジア 中華人民共和国 AD 

 中国における近代的労働運動は,国内資本主義が急速に発展しだした第一次世界大戦後に始まる。当初,自然発生的に生まれでた運動は,ほぼ同時期に結成された中国共産党の指導を受け,政治闘争的色彩の濃い運動になった。一方,軍閥は運動に徹底的な弾圧を加えた。その後労働運動は,革命運動の主流とはならなかったが,地下活動をつづけた。1840年代,開港場の外国人企業や,洋務運動期の官弁・商弁などの企業の出現により,中国にもようやく労働者階級が形成されはじめてきた。その後,第一次世界大戦期の国内資本主義の急速な成長とロシア革命の成功を背景として,1919年の五・四運動のころには,最初の近代的産業労働者としての階級的自覚にもとづいた結集がみられ,労働者は罷工(ストライキ)闘争をもって五・四運動に参加した。また,このころから北方の鉄道労働者・上海の各種産業労働者のあいだで組織化がすすんだ。当初,運動は賃上げ,待遇改善要求などの自然発生的なものであったが,1921年に成立した中国共産党が労働運動の指導を重視し,運動は,政治闘争的色彩を帯び出した。同年中国共産党は,中国労働組合書記部(本部は上海,のちに北京)を成立させ,労働組合運動を指導した。

 1922年,労働運動は最初の高揚期を迎えた。蘇非徴指導の中華海員工業連合総会のストライキは,たちまち香港全体に,そして全国各地へと展開していった。同年,労働組合書記部の呼びかけにより,第1回全国労働大会が,広州で23万人の労働者の代表162人を集めて開かれた。大会は,「帝国主義打倒」「軍閥打倒」のスローガンを採択し,書記部を当面の労働運動の全国的指導・連絡機関とすることに決定した。労働運動が,しだいに組織化・発展してくると,軍閥・帝国主義はこれに弾圧を加えた。当時,急速な発展をみせていた北京−漢口鉄道労働者に対して,軍閥,呉佩孚は1923年2月7日,大弾圧を加えた(二・七惨案)。以後,運動は一時的な退潮期に入り,地下に潜行して継続された。

 一時停滞した労働運動は,国民革命(北伐)の高まりとともに,第2の高揚期を迎えた。1924年の国民党の第1次全国大会は,「連ソ・容共・扶助工農」政策を打ち出し,その根拠地広州では,労働組合は合法的組織として活動していた。1925年5月の第2回全国労働大会(広州,54万人の代表277人)では,全国的な労働運動の指導機関として,中華全国総工会(主席=林偉民,副主席=劉少奇・劉文松)を成立させた。この年は,上海の五・三〇事件,広州・香港の大ストライキなど,労働運動の嵐が全国に吹き荒れた。1926年5月の第3回全国労働大会(広州,124万人の代表502人)は,北伐支援を決定した。翌年3月には,上海で労働者が政権を奪取するなど,運動は空前の発展をみせた。

 1927年4月12日,蒋介石が反共クーデタを決行,労働運動は大打撃を受けた。6月,国民党左派政権下の漢口で第4回全国労働大会(280万の代表420人)が開かれたが,7月,蒋介石と左派とが反共で合流すると,運動は徹底的に弾圧された。これ以後,国共内戦期・抗日戦期を通じて,運動は地下に潜行するが,国民党の御用団体の中国労働協会(理事長,朱学範)の統制を受け(総工会は事実上解散),共産党支配地区では,内戦・抗日戦支援の増産運動として展開された。日本の敗北後,運動は再び活発化し,1948年6月の第6回全国労働大会(ハルピン,283万人の代表504人)では,総工会が再建された(主席=劉寧一,副主席=朱学範・陳雲・李立三ら)。

 解放後,総工会は法制上の地位を確定され,労働者の団結と教育とに当たった。文革中,活動を停止したが,現在では再建され,活発な増産活動を行っている。なお,総工会の機関誌は「工人日報」である。