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●連合国軍最高司令官総司令部 れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ

AD1945 

 General Headpuarters of the Supreme Commander for the Allied Powers 略称 GHQ 。第二次世界大戦後,1945年(昭和20)〜1952年(昭和27)のあいだ,日本占領政策の中央管理機構。日本がポツダム宣言受諾を申し入れたその直後の8月13日,米国政府は米太平洋陸軍総司令官ダグラス=マッカーサー元帥を連合国最高司令官(SCAP)に任命し,ただちに連合国に対して承認を求めた。これに対し,ソ連政府は,SCAP を2名とし,いま1人ソ連極東軍総司令官ワシレフスキー元帥を加えるよう提案したが,米国政府はこれを拒否し,SCAP はマッカーサー元帥1人となった。8月30日,厚木に到着したマッカーサー元帥は,ただちに横浜にむかい,米太平洋陸軍総司令部に入った。同司令部は,すでにマニラにあるとき,日本占領に備えて,軍政部を設置し直接軍政の準備をしていた。それは日本は全面降伏したとはいえ,必ずやなんらかの敵対行動をとり得るだろうと予想し,占領を軍事作戦の継続と考えていたからである。

【占領政策】一方日本占領政策については,1944年(昭和19)12月1日,米国務・陸・海軍の3省調整委員会が設立,さらに翌年1月13日,太平洋・極東地域の政策の起案を担当する極東小委員会が設置され,ここに対日政策決定機構が確立した。それによって,1945年(昭和20)4月には「敗北後における米国の日本に関する初期方針の要約」が作成され,のちに日本のポツダム宣言受諾によって大きく修正されて,9月22日,米国政府はこれをマッカーサー元帥に伝えるとともに公表した。これによると,日本占領には連合国諸国の軍隊の参加が歓迎されること,しかしその占領軍は米国の任命する最高司令官の指揮下に置かれることが決定していた。また日本政府に対しては,総司令官は天皇を含む日本の政府機構および機関を通じて,その権限を行使するが,これは日本の現存形態を利用することであって,それを支持することではないという間接統治を行うことを明らかにしており,ここに占領政策の基本構造の決定をみたのである。

 9月17日,GHQは横浜から東京に移り,10月2日連合国軍最高司令官総本部(GHQ/SCAP)が設置され,作戦司令部としての一般参謀部の外に SCAP 独特の9局よりなる特別参謀部が置かれた(付図参照)。この内部組織はその後多少の変化はあったが,マッカーサー元帥は,この組織をもって,ポツダム宣言を実行するということを除けば,米政府の指令を受け,間接統治方式をもって占領政策を実行していったのである。もっとも間接統治方式といっても GHQ 係官の口頭指示も多く,予算・法律をはじめ重要政策には GHQ の事前の許可や了解が必要とされた。

 初期占領政策の実施過程において各参謀局の果たした役割を顧りみると憲法改正をはじめとする政治の民主化政策を担当したのは民政局である。財閥解体・労働改革など経済民主化政策は経済科学局,農地改革は天然資源局,思想・マスコミ・宗教の「自由化」は民間情報局,公職追放・政治犯釈放は民間諜報局,防疫・保健・衛生行政は公衆衛生福祉局が,それぞれ担当し,推進したのが目立つ。また第1級戦争犯罪人の裁判にあたる極東国際軍事裁判所が付置された。

 1945年12月のモスクワ外相会議は英ソの要求を容れ, SCAP の諮問機関として,米英ソ中の4カ国代表からなる対日理事会を東京に,また11カ国(のちに2国参加)代表で構成される政策決定機関たる極東委員会をワシントンにそれぞれ設置することを決定した。しかし前者は,米ソの対立激化のため実質的な機能を果たし得なかった。また後者はアメリカが中間指令権をもったので,アメリカの望む方向で占領政策をすすめることができた。したがって SCAP のアメリカの単独占領機関という実質にはほとんど影響を与えなかった。1951年(昭和26),朝鮮戦争に関連してマッカーサーが免職されて最高司令官はリッジウェイ中将に代わり,1952年(昭和27)4月,講和条約の発効とともに SCAP は廃止された。

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