●レパントの海戦 レパントのかいせん
ヨーロッパ スペイン AD1571 スペイン王国
1571年10月7日,ギリシア南部コリント湾の一角におけるオスマン=トルコ海軍と地中海沿岸のキリスト教諸国連合艦隊との海戦。16世紀地中海世界での最も大きな合戦であり,これに参加して左腕に負傷した当時24歳のセルバンテスが,のちにこの一戦を「かつてなかったもっとも感銘的な出来事」と呼んだことは有名。16世紀の地中海は再度イスラーム教世界とキリスト教世界の東西対立の舞台となった。東の雄はオスマン=トルコ帝国,これに抗するのはスペイン――正確を期して言えばカスティリャ-アラゴン連合――だった。そして前者の傘下には北アフリカのイスラーム教勢力が,また後者の周辺にはローマ教皇庁やイタリアの都市国家(ヴェネツィア,ジェノヴァなど)がそれぞれにあった。
14世紀とともに盛運を迎えたオスマン=トルコは東ローマを滅ぼした(1453)勢いに乗ってギリシア(1460),エジプト(1517),ハンガリー(1526)を相次いで席捲した。この間にジェノヴァは黒海から追われ,ヴェネツィアはトルコの朝貢国に成り下がった。そして遂に聖ヨハネ騎士団の死守するロードス島がトルコ海軍の前に屈すると(1522),地中海情勢はにわかに緊張の度を高めた。北アフリカ一帯のイスラーム教徒はトルコの威勢を後楯にして地中海沿岸のキリスト教徒側の港や町を蹂躙し,全ヨーロッパが不敗トルコの襲来近しの恐怖に取りつかれた。
キリスト教世界のなかでこの事態に対処できそうなのはスペインだけだった。グラナーダ王国の征服(1492)で中世以来の国土回復戦争(レコンキスタ)を終えたものの,国内にモリスコの名で呼ばれる多数の潜在的イスラーム教徒を抱えたスペインは,北アフリカからの侵寇に常時備えなければならなかった。またシチリア,サルディーニァ,ナポリへと連なるその版図を有効に防衛し,これらとイベリア本土間の海上交通の安全確保はスペインにとって文字通り死活にかかわることだった。スペインは絶えず小麦の供給をとくにシチリアに仰いでいたからである。
スペイン=ハプスブルク朝最初の王カルロス1世は,フランス王やプロテスタント諸侯との争いに注意と力をそがれて,満足な地中海政策を推進できずに終わった。だが,スペインに生まれ育ったその子フェリペ2世は地中海の重要性を父親よりも明確に見抜く眼をもっていた。同王はトリポリ奪回作戦(1559)の失敗の教訓を活かして海軍力の増強整備を進め,来たるべき機会に備えた。
トルコ軍は多大の犠牲を払ったにも拘らずマルタ島の攻略に失敗した(1565)。5年後,彼らはこの無念を目の前にあるヴェネツィア領キプロス島の占領で晴らそうと試みて,容易に目的を達した(1571)。この新たな敗北にローマ教皇庁はキリスト教諸国の結束を説き,苦心の末にスペインとヴェネツィアを交えた同盟の調印に漕ぎ着けた(1571年5月25日)。同盟の内容はやがてスペイン船とヴェネツィア船を主力とした200隻を超える連合艦隊となって具体化された。そして総司令官にフェリペ2世の異母弟ファン=デ=アウストリアを迎えると,トルコ艦隊との対決を求めて9月16日シチリアのメッシーナから出航した。
両艦隊は10月7日の早朝,期せずしてコリント湾の一角をなすレパント湾で出会った。トルコ海軍のガレー船は230隻,連合艦隊のそれは208隻。兵力は2万5,000から3万とほぼ伯仲していた。ただちに戦闘態勢が組まれ,正午ころに戦端が開かれ,午後4時ころには勝敗が決した。
戦いはトルコ軍の惨敗に終わった。死者と負傷者は双方ともに約3万を数えたが,トルコ側は総司令官アリ=パシャの戦死に拿捕または沈んだガレー船195隻と壊滅的な損害を蒙った。キリスト教徒軍が大砲や火縄銃などの火器で武装していたのに対して,トルコ軍が弓兵を主力とする旧来の戦法を取ったことが勝敗の別れ目となった。
合戦には勝ったものの,キプロス島は2度とヴェネツィア領には戻らず,イスラーム教徒海賊の横行も止まなかった。しかし,この一戦でキリスト教ヨーロッパは「トルコ海軍を不敗と信じて疑わなかった自らの大きな誤りを悟らされた」(セルバンテス)。一方,トルコ帝国は220隻もの大艦隊を速やかに再建したものの,これを港に繋留したまま朽ちるにまかせるほどかつての戦意と自信を失った。以後,西ヨーロッパは盛運にむかい,オスマン=トルコは衰退の道を辿り始めた。