50音順    検 索

●レーニン

AD1870 

 1870〜1924 本名ウリヤノフ,別名ニコライ。ソ連の政治家,ロシア革命の指導者。1870年4月22日(露暦4月10日),国民学校視学官の子としてシンビルスク(現ウリヤノフスク)に生まれる。1887年,兄アレクサンドルがアレクサンドル3世の暗殺事件に加わり刑死した事件は,彼の革命家としての生涯を決した一因となる。同年シンビルスク中学卒業,カザン大学法科に入ったが,革命運動に参加,逮捕放校となる。1889年,サマラ県に移り,マルクス研究を続け,1892年,ペテルブルグ法科検定試験に合格し,弁護士補となる。翌年ペテルブルグに移り,マルクス主義指導者として活躍。1895年国外に行き,プレハーノフ労働解放団員と会い,帰国後労働者階級解放闘争ペテルブルク同盟を結成,ナロードニキや合法的マルクス主義を批判,大衆にマルクス主義を宣伝した。1895年,末逮捕,投獄され,1897年,東部シベリアに流刑,クラスノヤルスクなどに滞在,1898年,クルプスカヤと結婚。この間,『ロシアにおける資本主義の発達』を完成したのみならず,フランス唯物論,カント,ヘーゲルを研究した。1900年初め,刑期を終え内地に帰ったが,同7月亡命。同年12月,ミュンヘンにおいて「イスクラ」(火花)第1号を発刊,当時のいわゆる「修正主義者」「経済主義者」と論戦,革命的マルクス主義党の創立に努力。1901年12月,「ザリャー」(天映)誌上で初めてレーニン(レナ川の人)の署名を用いる。1903年,ロンドンで開かれたロシア社会民主労働党第2回大会で,党組織原則でメンシェヴィキと分裂,強固な戦闘的ボリシェヴィズムの基礎を確立した。その後,ジュネーヴに移り,「イスクラ」を脱退,1905年初め,「フペリョート」(前進)を創刊,メンシェヴィキの日和見主義と戦う。1905〜07年の第一次ロシア革命にあっては,ペテルブルク,フィンランドなどにあって,これを指導したが1907年末,革命退潮とともに再び亡命,ジュネーヴ,パリなどにすごす。

 1910年12月,「ズヴェズダ」(星)を発刊,1912年1月,プラハ会議でメンシェヴィキと決定的に分裂,ボリシェヴィキを独立の党とし,4月に日刊紙「プラウダ」(真理)を創刊,党勢力の拡大をはかる。第一次世界大戦では,祖国防衛論にたった第2インターナショナルに反対,『帝国主義論』(1916)を書き,帝国主義時代における資本主義の発展の不均等性の法則を明らかにし,ロシア社会主義革命の勝利に展望を与えた。1917年,ロシア“二月”革命勃発後,4月にペトログラードに帰り,10カ条の『四月テーゼ』を発表,社会主義革命への移行,第3インターナショナルなどを訴えた。臨時政府の弾圧により7月以来地下に潜り,武装蜂起を準備するとともに,国家権力と革命を分析した『国家と革命』を完成。10月初めフィンランドから帰国,“十月”革命を指導,ソヴィエト権力を樹立,初代人民委員会議議長となり,革命的諸方策の実施にあたる。1918年1月,憲法制定会議を解散,ボリシェヴィキの一党独裁を確立,3月,ドイツとブレスト=リトフスク講和条約を結び,戦争から離脱し,モスクワに遷都,1918年7月,第1次ソヴェト憲法を制定,社会主義社会の建設に取り組んだ。

 内乱と干渉戦の勃発のなか,レーニンは1918年9月“一切”を危機打開のために動員する戦時共産主義を実施,革命の防衛を指導し,1920年,内乱の鎮圧に成功した。この間,1919年3月,コミンテルンを創設し国際主義的革命運動の結集をはかり,1920年3月にはロシア電化国家委員会ゴエルロ)を設置,工業化政策の推進を企図した。内乱終結後は1921年3月に新経済政策を採用,労農提携によるロシア経済の復興にとりかかったが,1922年秋以来重病となり,数回の脳出血ののち,モスクワ郊外ゴルキ村において,1924年1月21日死亡した。彼が,マルクス主義をロシアの実情と帝国主義時代に適合・発展させ,ソヴィエト制度をプロレタリア独裁の国家型態とし,強力な戦闘的革命政党ボリシェヴィキ党ソ連邦共産党)を創設,労農提携による史上最初の社会主義国家を建設した意義は大きい。

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