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●レコンキスタ運動 レコンキスタうんどう

ヨーロッパ スペイン AD 

 イスラーム教徒の支配を免れた北部スペインには,8世紀から10世紀にかけてビシゴートを中心とするキリスト教徒が,その後のキリスト教王国の基礎を築きつつあった。アストゥリアス=レオン王国カスティリャ伯領パンプローナ王国(のちにナバルラ),アラゴン伯領カタルーニャ伯領などである。

 伝説によれば,イスラーム教徒の侵略に対して最初に武器をとって戦ったのは,アストゥリアス在住のビシゴートの貴族ペラーヨであった。彼は722年,イスラーム教徒の軍隊をコバドンガの山中に追い込み滅ぼした。これ以来北部の山々には,イスラーム教徒の姿はみられなくなった。しかし,キリスト教諸王国は,遺産相続によって細分化の道をたどり,加えて政治的にも分裂していたので,国土再征服運動は遅々としてすすまなかった。

 一方,1031年コルドバのカリフは,国内の諸民族の対立によって分裂し滅亡した。このために,北部のキリスト教徒の南下は容易になった。1046年,モロッコから侵入したアルモアデ族が,アル=アンダルス(アンダルシア)からキリスト教徒を追放したとき,彼らに対抗できる英雄的リーダーがいなかったので,ローマ法皇は直接その使者を送って,国境の設定に関する交渉にあたった。またカタルーニャ,アラゴンから,国際的名声をもつテンプル騎士団聖ヨハネ騎士団が国土回復運動に活躍した。1158年,テンプル騎士団がレオンのカラトラバの守備に失敗したとき,フェルナンド2世は自国のカラトバ宗教騎士団を創設した。その後,アルカンタラ・サンティアゴ騎士団などが次々と結成されて,キリスト教諸国における対イスラームの宗教的・軍事的協力体制は充実した。カスティリャ伯領が王国となったのは,1045年,カラオラの占領によってイスラームの地方領主を屈服させ,実質的に国土回復運動の発端をつくったサンチョ大王の死の直後である。カスティリャ王国のフェルナンド1世は,レオンの王位をも兼ねた。11世紀末にレオン王国を継承したアルフォンソ6世は,レオン,カスティリャアラゴン,ナバラの統一に成功した。1085年,アルフォンソ6世の軍勢は,イスラーム教徒の勢力の拠点トレド王国の都トレードを占領した。

 12世紀,イスラーム教徒のなかでも最も攻撃的なアルモラビド族アルモアド族が北アフリカから来襲した。しかし1212年,ラス=ナバス=デ=トロサにおいて,カスティリャアラゴン,ナバラの連合軍は,イスラーム教徒に対して決定的な勝利を収めた。この事実が象徴するように,13世紀は,キリスト教徒の勢力の伸張の時代であり,国土回復運動が飛躍的に発展した時代であった。1236年,コルドバが陥落し,1246年にはハエン,1248年にはセビリャが占領された。また1229年にはマヨルカ諸島,1238年にはバレンシアが征服された。さらにムルシアは,1244年にカスティリャによって,イスラーム教徒の手から奪回された。13世紀中葉までにはイスラーム勢力は,もっぱらアル=アンダルス南グラナダに閉じ込められたのである。12世紀後半再び分裂をへて,1230年にカスティリャとレオンの最終的統一が実現した。

 スペイン西部(ガリシア)では,イスラームの植民者はキリスト教に改宗するや否や奴隷から自由な身の従僕になった。スペイン東部では,イスラーム教徒の統合は進展しなかった。カタルーニャには,イスラーム教徒は入植していなかった。レオンは,ビシゴートの直系の子孫であるという漠然とした誇りをもっていたが,イスラーム化したキリスト教徒の入植を受け入れた。カスティリャはイスラーム教徒と国境を接するために,イスラーム教徒に宗教的絶対服従を要求した。11世紀のカスティリャは,軍国主義的であり,宗教的には不寛容な社会を形成した。しかし11世紀後半には,国土回復運動の性格は一変した。イスラーム教徒のトレードのような大都市が北部キリスト教徒によって陥落すると,巨大なイスラーム人口がカスティリャに併合され,平和的共存を認めるイスラーム的解決以外に道はなくなった。

 こうして,アルフォンソ6世がトレードを征服して,“スペイン全土の帝王”となったとき,国土回復運動は転換期を迎えた。王は自ら3宗教(キリスト教・ユダヤ教・イスラーム教)の皇帝と名のった。彼の臣下であるエル=シドは,アラビア語で“わが主”という意味で,彼の勇敢さをたたえるムーア人がつけた名前である。この名が象徴するように,エル=シドは戦いの前に必ず十字を切るキリスト教的英雄であるとともに,イスラーム教徒に対しても寛大で,彼らに尊敬されていた。

 ところで,カスティリャにおいては,たえず再征服された土地の新たな植民の必要性のために,他のヨーロッパ諸国にみられるような領主的土地所有の封建制は育たなかった。貴族は征服によって得た土地を封土としてではなく,軍役の報酬とみなしていた。また他民族の領土の征服による報酬を期待する彼らの習慣は,その後の大航海時代の新大陸の征服を準備したのである。

 また不安定な国境地帯に住む農民には,多数の特権が与えられ,彼らは強力な地方自治権を獲得するにいたった。

 スペインのコルテス(議会)は,イギリスより1世紀早く12世紀に始められた。アルモラビド族とアルモハド族の侵入によって,アル=アンダルスの金・銀の北部キリスト教諸国への流入が途絶えたとき,レオンの王室は通貨の切り下げを行った。このとき,地方都市の代表はコルテスに出席して,納税の条件について発言する権利を要求した。それまで貴族,僧侶からなっていたコルテスに,都市代表が招かれたのはこれがはじめてであった。13世紀になって,カタルーニャ,アラゴンバレンシアなどのコルテスにも都市の代表が出席しはじめた。とりわけカタルーニャとバレンシアでは,都市経済の実力に支えられて都市代表の発言権は大きかった。カスティリャでは14世紀に入って,都市代表の参加する議会活動は活発になったが,同時に,王権の都市自治に対する介入も強まり,議会の王権制約の力は弱まった。

 12,13世紀におけるキリスト教徒,イスラーム教徒,ユダヤ教徒の知的交流は,“暗黒”の中世ヨーロッパにアラビアの科学を伝え,ルネサンスの契機となった。キリスト教支配下にあったイスラーム教徒(ムデハレス)は,トレードにおける翻訳学校において,哲学・医学・数学・天文学などの書をラテン語に訳したのである。

 14,15世紀,国土回復運動が完了するにつれて,キリスト教諸国はそれぞれ異なった道をたどりはじめていた。ナバラはカスティリャアラゴンに挟まれ,国土拡張ができないためフランスに依存した。12世紀中葉にカタルーニャを合併したアラゴンは,13世紀末には地中海への勢力拡大を推進してバレアレス諸島を統合し,14世紀にはシチリアも手に入れた。レオンはカスティリャに合体し,その個性を失った。カスティリャは,アラゴンのような発展は遂げられず,産業は未成熟で農業は衰退した。王室は牧羊業の発展に財源を求め,1273年アルフォンソ10世は,地方ごとに形成された移動牧羊組合を一つの統一組合(メスタ)にまとめた。これがカスティリャ経済の基礎となったのである。

 国土回復運動の最も不幸な側面は,ユダヤ人・ムーア人・キリスト教徒の共同体の連帯の崩壊である。14世紀末には,カスティリャアラゴンで,ユダヤ人の大虐殺事件がおこった。産業の担い手であったユダヤ人・ムーア人に対する迫害は,経済的不況を招いた。

 15世紀におけるカスティリャアラゴンは,数十年にわたって内乱に突入した。カスティリャでは,大貴族がその収益を王権から守るために,アラゴン,とくにカタルーニャでは,都市と農村が王室に対して反乱をおこした。内乱に疲れ平和を希望する両国は,1469年,アラゴンの皇太子フェルナンドとカスティリャの王女イサベルの結婚によって,新しい時代を迎えた。

 1492年,カトリック両王は,イスラーム教徒の最後の拠点グラナダを占拠し,ここに国土再征服運動は完了した。同じ年カトリックに改宗しないユダヤ人は追放された。これは宗教的にも政治的にも,ひたすら統一にむかって展開してきたイベリア半島の歴史の完成であった。