●歴史哲学 れきしてつがく
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【歴史哲学とは】歴史哲学とは,歴史と哲学という異物をくっつけたケンタウロスのような怪物(ブルクハルトはそういうが)ではなく,歴史を対象とする哲学で,政治哲学・法哲学・文化哲学などと並ぶ各種哲学の一つである。歴史には「事実」と「記述」の2面があるから,それに応じて歴史哲学は歴史の存在論と認識論に分かれる。しかしその哲学自体にいろいろな立場があるから,観念論的歴史哲学・唯物論的歴史哲学などいろいろな歴史哲学がある。古典的には,ある超越的な原理から歴史を解釈して普遍史・人類史の始めと終わりを決め,その一貫した過程と意味を考える歴史の形而上学が主流である。これはメタ=ヒストリーともいわれ,よかれあしかれ歴史哲学を代表する。しかしこういう問題はもともと宗教にかかわるから,レーヴィトがいうように,聖書の歴史解釈に源があるともいえる。他方近代の科学時代に,歴史の固有の認識を究め,記述の方法を諸科学と対比しながら規定する歴史哲学もある。確かにホワイトがいうように,「歴史哲学はある日,普遍史の高貴な姿で現れたかと思えば,翌日には歴史家に方法のイロハを教えてやろうと申し出たりする」。歴史哲学の発生をみると,歴史の変動期(下り坂か上り坂か)に現れる。5世紀ローマ帝国が滅亡に瀕したとき,アウグスティヌスは『神国論』を書き,20世紀第一次世界大戦後,ヨーロッパ衰退の危機のなかでシュペングラーは『西洋の没落』を書いた。また18世紀啓蒙時代のフランスでは時代の先端に進歩思想の旗頭として登場し,以後ヨーロッパ近代思想史の推進力になった。しかしそのメタ=ヒストリカルな性格から独断論がなくはない。
【「歴史哲学」の誕生】「歴史哲学」ということばは,18世紀半ばフランスの啓蒙思想家ヴォルテールが書いた“La philosophie de l’histoire”から生まれた。しかしこの本は哲学書というよりは,理性の光でみた歴史,つまり啓蒙史観による一種の文化史である(のちに大著『諸国民の習俗と精神試論』〈1756年〉の序論に付けた)。しかしその歴史観は,テュルゴーの『人類精神進歩の哲学的展望』やコンドルセーの『人類精神進歩の歴史的素描』と同じような,人類の知的進歩という哲学をもってはいる。少しあとにドイツの哲学者ヘルダーが書いた『もう一つの歴史哲学』(1774)の方が哲学書らしい形をなしている。近代化に遅れをとったドイツは啓蒙思想を受け入れる社会基盤をもっていないので,その反動としてのロマン主義に流れた。ヘルダーはそこから啓蒙の進歩主義とは違うもう一つの歴史哲学を考えた。歴史には硬い理性の鋳型を押しつけるより柔らかい粘土のような認識で対象をありのままに受け取り,冷たい理知的批判をするより,暖かい同情同感のほうが歴史の認識にはむいている,という。これは期せずして歴史の認識論になっている。ヘルダーはのちに『人類の歴史哲学の理念』(1784)において諸民族の個性的な発展が普遍的な「人間性」の開花をめざすという進歩史観も唱えたが,前の『もう一つの歴史哲学』においてドイツ風のより本格的な歴史哲学が生まれたことになる。しかし半世紀前にイタリアの哲学者ヴィコは,歴史哲学ということばは使わなかったが,まさに歴史の哲学をしていた。彼はデカルトが明晰判明な知識ではないとして退けた歴史を人間の科学のなかに取り込む『新科学原理』(1725)を書いて歴史の哲学的考察をした。つくった者だけがつくられたものの内的真を知っている。自然は神がつくったから神だけが自然の内的真を知っている。人間は自然の外辺しか知り得ない。歴史は人間がつくったのだから人間は歴史の内的真を知ることができる,という。この歴史の内的(理解的)認識,それで得た精神のリズム(「正流」corsoと「逆流」ricorso),歴史の3段階の発見などをみると十分に歴史哲学の始まりといえる。
しかしもっと前に,西欧の人が知らなかった歴史哲学がある。14世紀,地中海のむこう岸にイブン=ハルドゥーンというイスラーム学者がいて『歴史序説(ムカッデイマ)』(1377)という大著を書いていた。この人も歴史哲学ということばは使わないが,個々の事実を記録し報道し物語るふつうの歴史をとおり越して諸事実から共通の形態や段階を引き出し,それで事実を解釈する帰納的方法を主張した。これは歴史哲学にほかならない。ヴィコがギリシアの古代世界から抽出した(1)神々の時代,(2)英雄の時代,(3)人間の時代という3時代と,イブン=ハルドゥーンがアラブのイスラーム教部族社会から抽出した(1)遊牧時代,(2)定住時代,(3)王朝時代という3時代とは,対象が違うから内容が違うのは当然だが,その時代設定の仕方はきわめて似ている。イブン=ハルドゥーンの発見によって歴史哲学は14世紀に始まっていたとすると,西欧の歴史哲学史は書き変えられなくてはならない。なお前記アウグスティヌスの『神国論』は,今では歴史哲学というより歴史神学というべきだといわれている。
【循環史観と直線史観】古代ギリシア人は世界を永遠の相からみて物事を変わらぬ本質を重視し移り変わるものを軽視した。自然が昼夜,四季の変遷を周期的にくりかえすように,歴史も戦争と平和の交代のような周期をくりかえすものとみた。歴史は運命のなせる業で人間の意志ではどうしようもなく,いつ始まりいつ終わることもなく,循環の輪を果てしなく回るものとみていた。これを循環史観という。これに対して永遠に存在するものは神だけで,この世は被造物,あるとき無からつくられ,時間とともに発展し,あるとき終わる有限の存在で,人類はひと組の夫婦(アダムとイヴ)から生まれた一家族のようなものという観念はキリスト教からきた。被造界は時間的存在で歴史は後戻りしない1回限りのものとみられていた。歴史は神の計画(摂理)にもとづき人間の意志がつくったものだから「世界史は世界法廷」(ヘーゲル)である。これを直線史観という。人類の歴史は初め完全な善と幸福の楽園だったとして,それを失った状態(原罪)が現実の歴史の世界で,キリストの贖罪によってもう一度楽園の状態を回復する目的をもっている。これがキリスト教の救済史観というもので,近代になってマルクスが歴史は原始共産制から始まり,奴隷制・封建制・資本制をへて,再び共産制になって目的が遂げられるといったその歴史観の型は救済史観の変容である。
ヨーロッパでは中世以後このキリスト教の直線史観がギリシア風の循環史観を駆逐して西欧の伝統的歴史観になったが,今からみるとこの直線史観だけがユニークで,循環史観の方が,強いてギリシア的という必要はなく,どの文化圏にもあるごく自然な歴史観である。だからヨーロッパでもキリスト教の勢力が衰えると,ヴィコやシュペングラーの場合のように循環史観が再現している。
【現実史と理念史】観念論者は,人間の本質が理性であるから,現実がいかに混沌としていても,長い目でみれば人類史は合理的でないはずがない,その一貫性を見抜くのが歴史哲学者の仕事であるという。カントは,経験的に知られる現実史とは別に,理性本質から演繹した「あるべき歴史」を想定する。この「あるべき歴史」つまり理念史が暗夜を照らす灯のように現実史の手引きをする。それが歴史哲学の役目だという。フィヒテは同じ考え方で歴史の進路を理性が本能として働いた時期,理性が権威に変わった時期,理性が意識され実践される時期というように設定した。これは原始時代・専制時代・市民時代にほぼ相応するから,理念史は現実史に関係なく思弁されたものとはいえ,ドイツ的な啓蒙思想の一つの表現になっている。
歴史家ランケはそういう思弁的方法はとらず事実そのものをみているが,個々の事実をそのまま実在とはせず精神的なものの表現とみて,事実のうしろに普遍的な精神があるのを予感してそれを歴史の実在とした。精神から事実を演繹するのではなく,事実からそこに息吹いている精神を直観するのである。(W.V.フンボルトはそれを「イデエの追感」という)。カントやフィヒテと認識のアプローチは違うが,その哲学は同じようなものである。19世紀初頭のドイツの思想界にはこのような歴史と哲学の接近があった。
【世界史の哲学と「理性の狡智」】ヘーゲルは歴史の実体は精神であって「世界史は世界精神の自己実現である」という。しかし世界精神は現実に一挙に実現せず,初め小さな民族精神として現れ,それに固有の国家をつくると亡んでその後により大きな民族精神が現れ,これをくりかえして遂に近代ゲルマン国家で世界史が完成するという。また精神の働きは自由という行為に現れるから「歴史は自由の意識の進歩」で,初め王1人が自由だったが次にわずかの人が,近代になって国民すべてが自由になるという過程にも現れているという。こうしてヘーゲルの書いた世界史は一つのドラマで眠れる精神の古代オリエントからギリシアの登場で幕があき,ローマ世界に進展し,キリスト教的・ゲルマン的な近代ヨーロッパ国民国家においてクライマックスに達する。これがヨーロッパ中心世界史の基本コースで,19世紀の世界史像の枠組になった。ヘーゲルは青年時代の神学研究で,初め古代ユダヤ人の部族宗教だったキリスト教が苦難をのりこえローマ帝国の国教になり,ヨーロッパ全体さらには世界宗教に拡大発展して行った歴史から一つの示唆を得ている。
このように世界精神が現実化するためには個々の歴史的契機において個々の働きが必要である。それが英雄の役割で歴史は英雄によってつくられる。英雄は自己の情熱や利害など利己的目的のために働くが,結果は世界精神の普遍的目的を達成することになる。このパラドックスをヘーゲルは英雄が世界精神に騙されてその仕事を遂行したのだという。これを「理性の狡智」という。アレクサンドロス大王は自己の征服欲からエジプト・ペルシア・インドに遠征したが結果はギリシア精神が東方世界にひろがった。ナポレオンはプロイセン・イタリア・スペインなどを征服したが結果はそれら諸国に近代化が実現した。これはシェリングの歴史は個の自由と類の必然との予定調和で成り立つという考え方と同じで,ドイツ観念論独特の発想である。しかし歴史を個と全体の関係のなかでとらえ,その客観性と歴史的パラドックスを解く一つの鍵を与えてくれる。
【法則定立学と個別記述学】フランスの哲学者コントは人類の知性は(1)神話的状態,(2)形而上学的状態,(3)実証的状態という3段階で進歩してきたという。いま神の摂理や世界精神から歴史を解釈した時代は去って,個々の事実の継起相関関係を明らかにするだけの実証主義の時代になったという。この方法の普及によって歴史哲学にも方法論の転換が迫られた。哲学者は形而上学的問題を棚上げして,歴史学を物理学と同じような科学にできるかどうかを考えた。ドイツの歴史家ランプレヒトは可能と考えてそれを近代歴史学と称したが,新カント派の哲学者は反対した。ヴィンデルバンドはいつもある(くりかえす)ものを扱う自然科学と一度だけあったものを扱う歴史学とは基本的に違う方法であるといい,経験科学には「法則定立的」nomothetic と「個別記述的」idiographic の2方法があるといった。あとを受けたリッケルトはそれを「一般化」と「個別化」にいい直し,さらに個別化の原理を価値に求めて,価値関係学を文化科学といい,没価値学を自然科学とした。歴史学は当然文化科学に属し自然科学と対立する。この方法論は歴史の個体認識をもとにして,歴史学は自然科学と別の次元でもっぱら1回的記述学をするものとした。確かにこの方法は史実の個性的な面をとらえるのには有効で,歴史主義の論拠になったが,果たしてそれだけで済むか。現代の歴史学としては,種々の法則・一般的諸概念・社会の形態・段階・制度・構造などと関係なしに科学的な記述ができるか。なぜ個別性・1回性だけにそれほど固執するのか。それが歴史家の関心以上のものでないとすればそれは何か。
【「理解」と「説明」】ドイツの哲学者ディルタイはヘーゲルの汎精神主義に反対し観念論哲学に見切りをつけて歴史の認識論の基礎づけにむかった。当時の論題はそれが科学と同じかどうかに集中していた。自然科学は法則や公理から演繹して結果を斉一的に説明することを機能とするのに対して,歴史家はいかにして個別的認識を可能にするかである。それは悟性だけでなく感情や意志も含めた「全人」が表現したものを同じく全人が体験をとおして直接認識することで可能で,その認識は心理学を導入して「追体験」または「感情移入」による認識だという。これを歴史の固有の認識とした。新カント派より認識論的に一歩突っ込んでいる。この個別認識を「理解」といい,自然科学を説明科学とし歴史学を理解科学とすることでここでも二元科学論になった。しかしこの理解という認識は個人対個人の認識には有効で微妙な心理の褶をつかむことはできても,その認識に誤解が入るのを防げない。認識の正しさを保証する客観的基準がなくてはならない。またこの方法は個人の伝記を書くのには有効でも,制度や主義のような心の通わぬ非人間的な対象は認識できないという弱点がある。
【思弁的歴史哲学と分析的歴史哲学】第二次世界大戦後,ナチスの反ユダヤ政策に追われたユダヤ系哲学者がアメリカに亡命したことが歴史哲学の舞台を変えた。前世紀来の歴史認識論や二元的科学方法論はプラグマティックなアメリカの学界にはなじまず,それにウィーン学団出の新実証主義者には容認できるものではなかった。彼らはコント以来の実証主義を徹底させて伝統的な歴史の形而上学を破砕した。観念論者のいう世界精神や時代精神,歴史のダイナモや歴史の歯車といった比喩までもいっさい実証できないものを空想として片付けた。伝統的な歴史哲学を一括して思弁的歴史哲学といい,それに対して彼らの哲学を分析的歴史哲学といった。当面の課題は一元的科学方法論の立場から新カント派やディルタイの二元的科学方法論を論駁することにあった。1回的ということは時間・空間の座標に置いてみればすべてのものが1回的で,石コロ一つが落ちるのもルイ16世の首が落ちるのも同じだから後者だけを歴史的とする理由はない。歴史家の関心の的にすぎないものを歴史の固有の対象とするにはあたらないという。また物理学出身の哲学者ヘンペルは,科学には一定の法則のもとに何がしかの初期条件を入れれば結果を論理的に導出できるという法則演繹的説明ただ一つがあるだけで,歴史の説明も例外ではない,ただ人間の心理や社会に関するものは適用できる法則が少なく初期条件と法則を分離しにくいために導き出される結果が不明確になるのだという。元来物理学に使うこの説明の方式を歴史に使うこと自体が無理で,法則演繹的説明の限度は明らかである。そのためヘンペルは法則を前提にしないで統計的にある事実群 F と事実群 G の因果関係の確率が高ければ事実 f は事実 g をひきおこすという帰納確率的説明を補足した。これによって説明の幅はひろげられたが,それでも説明できないものが残る。理解という認識は,どの類にも属さない新事実を発見したとき自然科学者も使うから歴史だけのものではないにしても,歴史にはより多く使う場合がある。結局科学の発達とともに「理解」から「説明」へ進んでゆく認識の線上に歴史学もあるということで,歴史学はかたい科学ではないが,柔らかい科学ではある。
【全体論批判と方法的個人主義】歴史記述のことばの分析だけでなく歴史社会そのものの分析にむかうイギリスの分析哲学者ポパーは,伝統的な歴史の神学や形而上学をすべて否定し,さらには社会発展の必然性を主張するマルクスらの社会科学も否定するなどいっさいの「全体論」を否定して,歴史を個々の事態において個人がそのつど知り得た科学知識をもとに(ヘンペルと同じ論理で)予測されたものに従って行動する合理的な行為が歴史を一歩一歩前進させるのだという。彼はそれを「漸進的社会工学」という。この理論は歴史を個々の場面に分解して明快に合理的に説明することはできるが,小場面と大きな流れとのパラドックスは解けない。積み上げ式の漸進的進歩を保証する民主的社会には通用しても,体制そのものが根底から覆える,または外圧で揺るがせられるような激動の歴史(ロシアやドイツや日本が経験した)は説明できない。英米流の改良主義の歴史哲学といわれるゆえんである。
同じユダヤ系の哲学者 I.バーリンはトルストイの歴史哲学に共鳴して一種の民衆史観を主張した。ナポレオンのような英雄が歴史をつくったのではなく(ナポレオンは詐欺師だという),戦場で泥にまみれ血を流して闘っている兵士ひとりひとりの国土を愛し家族を愛する庶民的心情が歴史をつくったのだという。ヘーゲル的英雄史観に真っ向から反対した。これは確かに19世紀の歴史観の見落とした面を鋭く衝いてはいるが,民衆自体は歴史づくりの主体にはなり得ず,民衆の力を大きなエネルギーにする政治家や政策や社会条件がなくては歴史はつくれまい。マルクス主義者のプロレタリアでも階級や組織や教条や指導者なしに単独で歴史づくりの主役にはなれなかったろう。結局,分析的歴史哲学は歴史記述を論理的に批判し観念的な歴史解釈の非実証的なところを修正はしたが,伝統的な歴史哲学にとって代わるだけのものにはなり得なかった。歴史を全体として意味あるものと考える限り古典的歴史哲学の存在理由はまだある。
【比較文明の哲学】1914年,第一次世界大戦が始まるころ A.J.トインビーはオックスフォード大学で講義中に今のこのヨーロッパの国際危機の状勢が2000年前のギリシアのペロポンネソス戦争勃発時の状況とそっくりなのに気が付いた。今までそういう点をみさせなかったのは直線的・年代的な古典史学のせいであることを知った。彼は歴史のなかの「哲学的同時性」に着目した。「共時的な」synchronic ものを「通時的な」diachronic 歴史の考察のなかに入れればパラレルな比較形態という方法がとれるので,それで世界史を見直してみることにした。トインビーはこの着想をシュペングラーの歴史哲学によって補強した。シュペングラーは戦後ヨーロッパが世界の政治経済的主導権をアメリカに譲り,ロシア革命によって共産主義国が出現したことでヨーロッパ人が不安と動揺に沈んでいるとき『西洋の没落』を書いた。その論拠は文明を生物のような有機体とみて,すべての文明が1,000年の寿命で発生・成長・老衰・死滅の過程をたどるというもので,いまヨーロッパ文明の没落は不可避であるという。これは伝統的なヨーロッパ中心の直線的世界史を破るものである。しかしこれはシュペングラーの独創というより,すでにロシアの思想家ダニレフスキーがその汎スラヴ主義の背景に考えていたものであり,ドイツでも18世紀のヘルダー以来,ロマン派の思想家のあいだにリュッケルトやラソーのような有機体説をとる歴史家がいた。ランケ・ヘーゲル式世界史が全盛のあいだ,その陰にかくれてみえなかっただけで,ヨーロッパ中心主義の後退とともに前面に出てきたのである。トインビーは生物学的類比を使わず豊富な歴史的知識を縦横に駆使して西洋東洋にまたがる比較文明の新しい視点を提唱した。世界史はギリシア・ローマから近代ヨーロッパにいたる直線コースではなく,23個の文明が生滅をくりかえす循環の場である。これはギリシアの循環史観の復活ともとれるが,“現代”がようやくグローバルな視点で世界をみられるようになったことも事実である。問題はそれが単なる比較文明に止まらず直線的・年代的世界史に代わる世界史の哲学をどうたてるかである。
【歴史哲学はいま】第二次世界大戦後ヨーロッパ中心主義の世界史は終わった。それとともに直線的・時代的・段階的進歩の歴史哲学も一つの区切りをもった。冷戦時代にはイデオロギー対決によって不倶戴天の敵とされた米ソの2大陣営が共存の道を歩むいま(核戦争ができないという消極的平和のうちに)異体制の共存と異文化の並立がますます多元化,多様化をすすめるなかで,歴史哲学はこの地球世界史をどう説明するのか。驚異的な技術革新によって巨大化した産業社会が能率化と迅速化と画一化を押し進めるなかで人間性が疎外されて内面的にはむしろ危機感を高めているいま,それを克服する先きの歴史が見通せる歴史哲学が求められている。
〔参考文献〕W.ドレイ,神川正彦訳『歴史の哲学』1968,培風館
W.H.ウォルシュ,神山四郎訳『歴史哲学』1978,創文社
K.レーヴィト,信太他訳『世界史と救済史』1964,創文社
P.バグビー,山本新・堤彪訳『文化と歴史』1976,創文社