●歴史主義 れきししゅぎ
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【歴史主義の概念】歴史主義ということばはきわめて多義的であって,多くの哲学者,歴史学者が異なった,ときには相反する定義をくだしている。たとえばアントーニ(1896〜1959)は「歴史主義ということばには,今日なお決着をみせそうにもない独特な波瀾に充ちた歴史がある。そのことばにはさまざまな意味がこめられてきたし,今もってそれははっきりした意味にいわば定着しかねているのである。最初,ある誤り,むしろ一種の偏向を指摘するのに使われていたのが,ついには思想の積極的な開発を意味することとなり,しかもこのようななりゆきに従ってますます意味が拡大しはじめて,それは近代思想のまったく違った,たがいに矛盾しさえする流れを包含するまでになった」と述べている。このイタリアの歴史哲学者は,「ひとつではなくていくつかの歴史主義」を各国別に追求し,ドイツ的解釈とちがった,というより反対の考えを陳述している。歴史主義を普及させるのに最もあずかって力があったのはドイツだが,そのドイツにおいても,社会学者マンハイム(1893〜1947)は「歴史主義とは,言うまでもなく歴史記述一般と同義ではない。ヘロドトス以来,歴史は,素朴な年代記,伝説,信仰説話,修辞学,絵物語,芸術作品などの,さまざまの形で書かれてきた。だがわれわれがはじめて歴史主義をもつようになるのは,歴史そのものが歴史観,世界観にもとづいて記述されてからのことである。歴史記述がわれわれに歴史主義をもたらしたのではない。歴史過程がわれわれを歴史主義者に仕立てたのである。この意味で歴史主義は世界観である」とする。世界観である以上,科学や科学論,論理学,認識論,存在論をも貫流するわけで,歴史主義の適用範囲はすこぶる広い。また神学者ホイシーによると,歴史主義は「第一に,思惟の徹底的な歴史化,したがって完全に首尾一貫した歴史的思惟を意味する。それは一般に,ものごとを例外なく,つまり自己自身をも歴史的に生成したもの,継続的な歴史的生成において把握されたもの,とみなす。だが,思惟の徹底的な歴史化といういいまわしは,なぜ十分なものではないのか,と疑問をさしはさむこともできるし,またある一定の精神的傾向に限定されると,歴史主義という概念の意味があまりにもせまく理解されることにならないか,と問うこともできる」といっている。したがって「歴史主義とはなにか」を一義的に規定することはむずかしいけれども,共通理解としてはこういってよい。すなわち,歴史主義はたんなる歴史哲学の問題でもなければ,歴史学の問題でもない。19世紀から20世紀にかけて人々をとらえた精神生活の根本問題,彼らが否応なしに対決をせまられている精神的な力,ひとつの生の原理,ということである。しかしそれでは抽象的にすぎるし,また概念の混乱をきたすばかりだから,ここでは現代におけるふたりの優れた問題提起者トレルチ(1865〜1923)とマイネッケ(1862〜1954)の説を柱にして解説することにする。トレルチによれば,歴史主義と自然主義とは近代世界がうみ出した二つの巨大な科学的創造であって,古代にも中世にも知られていないものであった。これらふたつの科学的創造は,しかも原理的かつ包括的な仕方で対立している。歴史主義とは「人間とその文化や諸価値に関するわれわれの思惟の根本的歴史化」にほかならない。他方,自然主義とは「直接的経験を度外視する法則化の連関」であり,「そのようなものとして現実総体を包括する連関」である。両者とも近代以来の現実的・理念的な事情を背景としていたから,近代以降の遠大な歴史的展望をもってして初めて,十分に解明されるであろう。トレルチが歴史主義の理論的方面を研究したのに対して,マイネッケは歴史的方面,つまり歴史主義の成立・発展を克明に跡づけた。マイネッケによれば,歴史主義の核心は,さまざまな歴史的・人間的な力を,一般化的にではなくて個性化的に考察することにある。いいかえると,個別的なものに対する新しい感覚のめざめである。もちろん,人間と人間によって創造された社会的・文化的形成物にかんする個別的なものが,それまで一顧だにされなかったわけではない。ただ,それまでは,歴史の最も深いところにはたらいていた諸力,すなわち人間の魂と精神が,一般化的判断によって拘束されてきた。一般化的判断とは,人間はいつ,いかなるときにも変わらない存在であり,人間の性質は不変だとする。ストア派以来の自然法的な思考方法をさすわけである。そうした自然法的な思考方法は久しく西欧人を支配していたけれど,18世紀後半にようやくそれに対して個体化的な考察方法,人類は発展能力をもつという発展的な考察方法がとらわれはじめた。こうしてマイネッケは,個体=発展史観を準備した,イギリスのシャフツベリー(1671〜1713),ドイツのライプニッツ(1646〜1716),イタリアのヴィコ(1668〜1744)などの先駆者,ついでフランスおよびイギリスにおけるヴォルテール(1694〜1778)やモンテスキュー(1689〜1755)のような啓蒙主義者,イギリスにおけるヒューム(1711〜1776),ギボン(1739〜1794)のような啓蒙主義的歴史研究者,イギリスの前期ロマン派に属するファーガソン(1723〜1816)やバーク(1729〜1797)をへて,ついに“ドイツ運動”において機運は一挙にもりあがる。それはメーザー(1720〜1794)やヘルダー(1744〜1803)をへて,ゲーテ(1749〜1832)において頂点に達する。ランケ(1795〜1886)は,ゲーテやロマン派の感化のもとで人類の歴史的生の全体を歴史主義の原理に従って理解することを教え,このような理解を成熟させた最大の歴史家であった。“ドイツ運動”と称するのは,自然法的な思考方法が最高潮に達した西欧啓蒙主義にドイツが最初に反旗をひるがえし,その結果,ヨーロッパのほかのいかなる国にもまして力強く歴史主義が唱導されたからにほかならない。マイネッケは「ドイツ精神はここで宗教改革につぐ第2の偉業をなしとげた」といっている。このようなしだいで,以下においてドイツを中心にするのは,歴史主義の成立と発展がきわだち,それだけにまた危機が強く感じられたという意味でモデル=ケースとすることができるからである。【歴史主義の発展】ドイツ歴史主義の成立にはなお三つの要因が作用した。「現実的・理念的な事情を背景にした」といったゆえんである。(1)ロマン主義,(2)観念論哲学,(3)国民主義がこれである。(1)ロマン主義はドイツにおいては単なる文学運動ではなくてひとつの文化革命を意味し,精神生活の多方面に影響をおよぼした。とりわけ歴史学の勃興に貢献した。それというのも,ロマン主義は過去をかえりみ,自民族の歴史や伝統を尊ぶと同時に,自己のものとははなはだしく隔った文明に対しても価値と興味を抱き,ゆたかなファンタジーをそだてたからである。(2)観念論哲学においては,カント(1724〜1804)がイギリスの経験論,大陸の理性論およびニュートン物理学にもとづいて批判哲学をうち立てたとはいえ,歴史観にかんするかぎり,まだ啓蒙主義を克服することができなかった。ほぼ半世紀おくれてヘーゲル(1770〜1831)が現れると,歴史が大きな関心事となる。いうまでもなくヘーゲル哲学の根本は弁証法であるが,彼はこれを歴史の発展に適用した。それぞれの時代は前の時代を否定する一方でこれを取り入れ,より高い段階でいかす。歴史は正・反・合という弁証法的発展をとげる。むろん,ヘーゲルの考えは実証的な歴史研究に裏づけられたものではなくて,論理主義的な世界史構成である。したがって実証性の欠如のゆえに歴史学者から,観念性のゆえに唯物論者から攻撃されたのは,当然のなりゆきだった。ただ,弁証法を駆使して歴史を動的に把握したこと,歴史におけるイデーの現れを説いたのは注目すべきで,肯定されるにせよ否定されるにせよ,19世紀の歴史観に与えた影響は大きい。(3)国民主義は,周知のように自由主義と並んで19世紀の政治を動かした原動力である。だが,イギリスやフランスのような西欧先進国においては国民的国家の建設はつとに解決ずみだったから,ブルジョワジーの政治的自由とか権利の獲得が当面の目標となった。これに反してイタリア,ドイツなどの後進国では人権や市民権の確立よりも民族独立のほうが先決問題となった。これらの国々で自由主義と国民主義が並行したのはそのためである。ロマン主義詩人が賛美した中世ドイツの黄金時代への回想,ナポレオンに対するドイツ民族の奮起と解放などが国民主義運動の進展に拍車をかけた。おくれた国ドイツの歴史学者が19世紀ヨーロッパの史学界において指導的地位に立った背景には,国民主義のような現実の政治運動が存したことをみのがしてはならない。ともあれ,こうした要因が作用し合って歴史主義的歴史観を形成することになるが,ピークはなんといってもランケである。ランケは「それが本来どうあったか」をモットーとして,史料の徹底的批判によって事実を客観的に認識しようとした。これによって古来の物語的歴史とか教訓的歴史を近代的歴史学に高めたのであった。ランケの歴史観を歴史主義的歴史観との関連で,2,3の特徴をあげてみよう。
【歴史主義的歴史観の代表者ランケ】(1)ランケは啓蒙主義の歴史観に反対した。〈多くの哲学者のように,全人類は,一定の原始状態から,ある積極的な目的にむかって前進していくものである,と仮定しようとするなら,ひとはそれを二つのしかたで考えることができるであろう。すなわち全体をみちびく一つの意志が,人類の発展を一つの点からほかの点へと動かしていくのだとするか−−それとも,人間の内にいわばある精神的な素材といったようなものが潜んでいて,それが事物を一定の目的にむかって必然的に駆り立てているものであるとするかである。−−私はこの二つのみかたは,哲学的にも成り立たないものであるし,また歴史的にも実証できないものであると考えたい〉(『世界史概観』)。同じように啓蒙主義の合理主義的な国家観をも鋭く批判する。「国家は個性をもった存在であって,互いに相似の点をもってはいるけれども相互に根本的に独立したものなのである。国家契約説によれば,国家は浮雲にも似た,たよりない浅薄な集合体にすぎないだろうが,私はそれと反対に,国家を精神的実体,人間精神の独創的事物,あえて神の思想ともいうべきものだと考える」(『政治問答』)
(2)ヘーゲルの歴史観に対しても舌鋒は鋭い。〈哲学者たち,とりわけヘーゲル学派は,この点についてある種の観念を樹立している。それによると,人類の歴史はあたかも一つの理論過程のごとく,定立,反定立,媒介において,青定と否定とにおいて展開していくものだという。だがこうしたスコラ学において,生命は滅びる。歴史にかんするかかる見方,種々なる論理的範疇に従って自己発展する精神の過程もまた,すでにわれわれが排撃したところのものに帰着するであろう。かかる見解にしたがえば,ひとり理念のみが独立の生命をもつものとなり,それに反してすべての人間は,この理念によってみたされた影か,あるいは図型にすぎないものとなってしまう〉(『世界史概観』)個体性・発展・連続性など,歴史主義の核心をなすことばを,もう1カ所ランケから引用しよう。〈人類の各時代には,一定の著大な傾向が現れている。そして進歩とは,各時期において,人間精神のある動きが現れ,あるときにはこの傾向を,またあるときには彼の傾向を顕著ならしめ,それにおいて独自な姿を呈示するというところに存在するのである。しかるにもし,右に述べた見解とは反対に,人間の生活が時代を追って向上するところに進歩があるのであり,したがってどの時代もその前の時代を完全に凌駕するものであり,また,最初の時代がつねに最も卓れたものであって,先行する時代はただ後続する時代の運搬者にすぎないものであると考えるなら,それは神の不公平ということになるであろう。だが私は主張する。各時代は神に直に接するものであり,その価値はそれから派生してくるものが何であるかにかかるのでなく,それが存在そのもの,当のそのもの自体のなかに存するものであると。まさにそれによって,歴史の考察,わけても歴史における個体的生命の考察が,比類なき独自の魅力をもつことになる。
(3)しかしランケは国民主義運動に対しては積極的な関心をはらわなかった。少年時代から神聖ローマ帝国の崩壊,ナポレオンによる祖国の敗北,プロイセン改革など時代の激動を体験し,ベルリン大学教授になってからは直接間接にプロイセン国家と関係をむすんだにかかわらず,熱狂的な国民主義者になれなかった。彼の保守的性格とか歴史に対する観照的な態度がそうさせたのであろう。ところがランケの学風をつぎながらも,ランケの保守性や静観にあきたらない一群の歴史家がおこった。彼らをプロイセン学派あるいは政治史家とよび,ドロイゼン(1808〜1884)やトライチュケ(1834〜1896)などを代表者とする。彼らの願いは,1日も早くドイツを統一し,自由主義を市民階級に根づかさせることだった。「国民自由主義的」を標榜したのも当時におけるドイツの特殊事情の反映であって,歴史家である一方,彼らは盛んに政治活動を行った。ただし,プロイセン学派は功罪が半ばした。功というのは,彼らが国民自由主義の基礎づけをし,自らも政治運動に加わったことによって,歴史研究に現代意識を喚起したからである。罪というのは,政治運動に加わったりプロイセン政治権力に迎合することによって,学問の自律性をわすれる危険を生じたからである。
【歴史主義の危機】およそこのように西欧の自然法的啓蒙主義に対する反撃とドイツの特殊事情をふまえて成立・発展したドイツ歴史主義は,それが依存していた基盤の変化によって変質をきたした。19世紀の半ばをすぎると,(1)ロマン主義に代わってリアリズムがおこった。(2)ドイツの観念論哲学に代わってイギリスの功利主義,フランスの実証主義が主潮となった。マルクス(1818〜1883)やエンゲルス(1820〜1895)の唯物論がヘーゲルの観念論に真向から対立した。(3)かつては歴史主義に生気を吹きこんだ国民主義も,1871年にプロイセンによるドイツ統一が実現されてからのちは,にわかに沈滞した。政治史家は一応使命を果たし,以後は象牙の塔に立てこもって,しだいに現実生活とのいきいきとした関連を失うにいたった。歴史と現在とをむすぶきずなを失った損失は小さくなかった。このようにして前期歴史主義の時代が過ぎ,第一次世界大戦にいたる後期歴史主義の時期に入る。そしてこの時期に“歴史主義の危機”と呼ばれるような状況が生じたのである。もっとも,危機はすでに1870年代から予感されていた。トレルチが〈最近の歴史主義の危機はニーチェに由来する〉といったように,ニーチェ(1844〜1900)はいち早く危機を感知した。『生に対する歴史の利と害』(1874)において,彼は,時代が誇りとする歴史的教養(歴史主義という語は使っていない)を痛烈に批判したのである。ニーチェはいう。「現代の歴史的教養を私はここで時代の病弊欠陥として理解すべく試みる。われらすべては史学の一種消耗的熱病にかかっている。一般に肥り過ぎる徳−−私のみるところでは,現代の歴史的感覚のごときはそれである−−が,一国民を台無しにしかねまじきこと,肥り過ぎた悪徳と優劣なしとするならば,私にも一応私のいい分を述べさせていただきたい」ニーチェによると,歴史は本来生に奉仕すべきなのに,かえって生を妨げ圧迫するほど過剰になった。歴史的感覚というものにも限度がある。限度をこすと,人間であれ民族であれ文化であれ,さいごには没落する。史学がある程度過剰となると,生は分解退化し,ついにはこの退化のために史学自身が分解退化する。ニーチェのこうした“歴史病”批判はやや奇矯で承服しがたいふしもある。だが1870年代におけるドイツの精神状況や,そうした状況が投影した歴史学界の状態をふりかえってみるとき,首肯できるふしもある。というのは,歴史学者はひたすら過去の詮索に没入して,現実との関連を希薄にしてしまったからである。ところが“歴史主義の危機”という場合,歴史研究そのものと歴史研究を支える精神とを区別して考えなければならない。〈今日われわれは,歴史科学の危機についてさまざまに語られるのを聞くが,それは学識者や専門家が行っている歴史研究の危機というよりは,むしろ人間の歴史的思惟一般の危機のことである。すなわち,歴史的な思惟のもっと一般的,哲学的な土台や要素のなかに,つまり,われわれが歴史の連関をそこから考え構成しなければならないさまざまな歴史的価値をどう理解するかという点に存在する。ドイツの専門的な歴史学は,ランケの精神以前にまだ存在していた巨大な包括的,世界史的像から19世紀の50年代以降,目をそむけ,ある場合には歴史をさまざまな領域や時代範囲に関する専門科学に分解し,ある場合には近代ヨーロッパ史をもっぱら政治的,外交的,軍事的にビスマルクの帝国建設にむけて方向づけたりした〉(トレルチ『歴史主義とその諸問題』)。歴史学はあらゆる分野での精神生活をたいへんな勢いで深化させ,それに活力を与え,芸術や文学を初めて現実的に理解することを教え,とくにパトスをもった民族的国家の建設に随伴し,それを成就させてきた。が他方では,その膨大な材料がいよいよ増大し,圧迫を加えるようになってきた。一つの解放であり高揚であったものが,一つの重荷となり混乱となってしまった。このトレルチのことばは,言い表し方はちがうけれど,先のニーチェのことばと符節を合わせているではないか。歴史学者は怠惰のそしりをうけない。それどころか,黙々として研究にはげんでいる。その結果,疑いもなく歴史研究の水準は高まり,精緻となった。しかし問題は,歴史学者が重箱のすみをほじくることで満足し,確固とした信念もなく歴史観の裏づけもなく,現在に対して無関心でいる,ということである。だとすれば,前期歴史主義のあのはつらつとした状況にくらべて,これはやはり衰弱退化した状況といわなければならない。歴史主義の危機を招来したものになお相対主義がある。「自然主義は無制限にあらゆる生活の自然主義化と荒涼化へみちびき,歴史主義は相対主義的懐疑にみちびく」とトレルチは指摘するが,じつはこのことは,つとに哲学者ディルタイ(1833〜1911)が看破していたところであった。発展説が歴史上のいっさいの生の形式が相対的であるという認識と必然的に給合し,そこから“確信の無政府状態”が生じることを指摘していたのである。マイネッケも同じような反省をしている。〈新しい動的歴史主義は過去と現在の両方のそのすべての内容もろともに生成・相互作用・自己変転の永遠のるつぼのなかへ投げこんだ。それは人間の顔をもつ一切のものに対する新しい歴史的理解の驚異の世界を,われわれの前に開示した。しかし同時にまたそれは,そのときにいたるまで人類がその上に立っていると信じていた特定の絶対的な理想の固い地盤を,一挙にしてではなく,まったく徐々に,しだいしだいに揺り動かしたのである。歴史主義が生み出したのは,ひとつの相対主義である。この相対主義は,それぞれの歴史的な個別形成物,それぞれの制度,それぞれの理念やイデオロギーをば,ただ生成の無限の流れのなかの過ぎ去る一瞬としてしか,みなすことができない。それによれば,万物はただ相対的な価値しかもたない。そこから発生するものは,信念のない,倦怠した懐疑論にすぎないであろう〉(『歴史的感覚と歴史の意味』)。もともと歴史主義のなかには,あらゆるものを相対化する腐蝕的な毒がひそんではいた。しかしながら前期の健全な歴史主義にあっては,他方にそうした毒にうち勝つに十分な強い力が存していた。そのために毒は表面に現れなかった。後期歴史主義において創造的な活力が枯渇するが早いか,毒はてきめんに効力を現してきたのである。
【危機の克服は可能か】大戦後の精神的危機に直面したとき,すでに19世紀末からおこっていた歴史主義(とくにドイツの)に対する疑惑が急速に高まったのは当然であろう。ここではふたりの例をあげよう。イタリアのアントーニとイギリスのバラクラフ(1908〜)である。(1)アントーニは,マイネッケと同じように,18世紀フランス啓蒙主義で代表される自然法思想や抽象的主知主義への挑戦に歴史主義の本質を求めた。しかし彼は,マイネッケの歴史主義概念には“常軌を逸した個性の崇拝”とか“閉鎖的で粗野な国民主義”がある,ときびしく批判する。また彼はトレルチとともに,歴史主義的思考がもたらした相対主義的懐疑に警告を発する。とはいえ自閉的な個体というロマン主義的な国家観が,19世紀のプロイセン=ドイツの歴史学において“政治的現実主義”とか“力の論理”を生み出したことも,容赦なく批判する。アントーニはドイツ的な一つの歴史主義ではなくて,あまたの歴史主義を確認する。そしてあまたの歴史主義のなかで最も卓越したものとするのが,師のクローチェ(1866〜1952)の“絶対的歴史主義”にほかならない。“絶対的歴史主義”とは“歴史主義の経験を尊重する新しいかたちの啓蒙主義”である。「ドイツの歴史主義からクローチェの歴史主義を分かつものは,あらゆる時代,あらゆる場所で同一であるような普遍的人間性としての精神という観念そのものである。ここにわれわれがみるものは,歴史主義的な形式こそまとってはいても,共通の人間性というストア的,キリスト教的な最も旧い観念なのである。それは人々をただ平等にするというだけでなく,各人に普遍的な尊厳を認める普遍的な理性の理念である」。「歴史主義と自然法思想という,それぞれ一面性のゆえにヨーロッパ史における二つの世紀の悲劇を決定づけた正反対の概念は,その総合をみい出したのである。そこには絶対的な規範が存在した。とはいっても,抽象的な法則に集成されたものではなく,歴史的情況に応じてときどきの具体的な課題と取り組む,動的で発明的,創造的な原理として」。
(2)バラクラフの批判はこうである。「あらゆる時代が変化の時代であるという意味とは別な意味でわれわれの時代は変動の時代に生きている」と主張する彼は,従来の歴史の見方,とくに歴史主義の教説が,比較的平穏な時代に生まれて,なるほどその時代には妥当したけれども,根本的に変動しつつある現代にはもはやそのままでは妥当しえない,という。歴史主義は1世紀にわたって支配的な思考方法であったが,その影響は,通俗化という劣悪化の衝撃を受け,いっそう広くゆきわたるにつれて,もっと悪いものになった。しかも,歴史的変化と歴史的過程としての歴史主義の教説は,われわれの認識を豊かにし啓発する反面,これと同じくらい,われわれの認識を不明確にし,混乱させてきたことが明白になっている。少なくとも歴史主義はそれ自体の相対主義という点からみて一つの理論として,それは時代に制約されたものであることは明らかである。すなわち,歴史主義はある特殊な時期,またその時期だけに妥当する世界観をしめしてはいるが,異なった条件のもとで,変動しつつある今日の世界に対してはもはや妥当しない。たとえば,歴史主義にとって基本的な,発展と連続性の強調そのものは,1世紀以前なら十分に自然なものだったし根拠のあるもののように思われていた。だが今日われわれは,よりいっそうはっきりとこうした仮説が,せいぜい部分的な見解であり,おそらく人を迷わす半面の真理にすぎないことを理解できる立場に立っている。こうしてバラクラフに従えば,歴史主義の神話は崩壊した。以上,アントーニとバラクラフの考えには耳を傾けるべきものであるが,歴史主義の発祥地ドイツにおいても批判の的になったことが注意される。第二次世界大戦後の西ドイツ史学界では,“構造史”とか“社会史”とか“歴史主義のかなたの歴史学”がとなえられている。従来の“事件史”に対して社会構造の変化に着眼し,政治生活のような表面的現象の根底にある“長期にわたる継続”“深層現象”に注目する。その主張が反歴史主義的というのはいい過ぎかもしれないが,伝統的な歴史学との断絶,ひいては個性=発展原理にもとづいた歴史主義の解体に通じるであろうことは,推察に難くない。いかなる歴史観も時代の制約をまぬがれない以上,歴史主義とても例外でありえない。では,変化をとげた情勢のもとで歴史主義は死滅すべき運命にあるのであろうか,それは過去の亡霊として現代歴史学のまわりをさまよっているのであろうか。この問いに答えることは,“歴史主義の危機の克服は可能か”という問いに答えることと重なっている。もとより本解説で十分な答えを与えることはできない相談だが,(1)歴史主義がもたらした相対主義に対する解毒剤があるかどうか,(2)歴史学と現在(現実)とのはつらつとした関係を回復しうるかどうか,の2点にしぼって考えよう。
(1)についてマイネッケは『歴史と現在』という論文で示唆にとむ見解を披瀝している。歴史が現在に対処する場合,三つの方法がある。第1はロマン的方法,過去への逃避である。人は過去のある特定の段階に光をあて,それを理想化し,できるならばそれを黄金時代に仕立てあげ,それを陰惨な現在と対照させる。おそらく人は,自分自身の時代にとっての創造的な衝動をさえ,ある偉大な過去からくみとることも可能であろう。しかしロマン主義が肥大するやいなや,それは生を促進する代わりに,むしろ阻害する。過去が現在を殺すのである。第2の方法は,ロマン主義のように過去へむかってではなくて未来へむかって歴史の目標を求めようとする。だがこの進歩の楽天主義に対して,多くの者は意気阻喪し,現代の文化問題の暗影が地平線にのぼってくる。かくて過去のロマン主義も進歩の楽天主義も,ついに一切を相対化する生成の流れに抗することができない。これら二つの歴史視点は水平の方向に進行するものであって,それゆえにまた,水平に走る生成の流れに堕することにもなる。だが,ことがらを垂直にも眺めて,流れの上にしっかりした橋を建造しようとこころみることができないだろうか。それは可能だとマイネッケは考える。ゲーテが“瞬間こそは永遠なれ”という詩句で,ランケが“それぞれの時期は直接に神のもとにある”ということばでいい表したように,歴史的人間や歴史的形成物を水平にみるのではなくて,それらに永遠かつ絶対的な内容を与えようとする垂直的な見方をとることである。少なくとも前期歴史主義の真髄がその点にあったとすれば,この前期歴史主義の真髄をもう一度回復することが,相対主義的懐疑から脱却する道となるかもしれない。(2)についてはトレルチの“現在的文化総合”の構想が参考になる。トレルチによれば,歴史認識は未来を意欲し,未来へ積極的に働きかける主体からして初めて可能になる。未来の形成を旨としながら現時代で行動する主体の関心からのみ,過去の観察は初めて可能になる。現在の行動性の方向からのみ,歴史的選択の方向,客観化と叙述の方向は初めて理解することができる。トレルチはこのような“現在的文化総合”によって歴史主義の危機を打開しようとしたけれど,思いがけない急死は解決を不可能にしてしまった。だが過去の知識の蒐集に汲々とし,現在の生に傍観者的態度をとるような後期歴史主義に対して,現在・未来の建設に歴史を役立てようとした彼の努力は,われわれに深い感銘を残す。“歴史主義のかなたの歴史学”を主張する者がいうように,歴史主義は“歴史的世界は自律的個人の自己実現の場だという理想主義的信念”にもとづいていたが,最近のヨーロッパ史の大破局の経験が歴史の意味に対する信念を動揺させ,“末期歴史主義に発展した個体化的認識方法”をもってしては,現代の複雑な社会構造を分析できないこと,過去の研究を“現在とのあらゆる関連から切断した”ことも,率直にみとめなければならない。しかしひるがえって考えるなら,その真面目を発揮した前期歴史主義は,そもそも18世紀から19世紀にかけての歴史の大変動期にあって,渾身の力をもってあみ出された方法,というよりも世界観であり,生の原理であったはずである。現在と過去とをむすびつけることに努力を傾注したはずである。だとすれば,後期歴史主義における退廃現象をみて歴史主義全体を否定しさることは,“角をためて牛を殺す”ことになりかねない。マイネッケはいっている。〈今日ではごく少数の人々しか,歴史主義に耳をかそうとはしない。しかし,われわれはこの歴史主義のなかに,人間の事柄に関するこれまで到達した最高の段階とみるし,人類の歴史に関するあらゆる問題に対してこの歴史主義が妥当しうることをも信じて疑わない。歴史主義は,これまでの単なる主義を真の生命へと転化する人物さえ見出せば,価値の相対化によって与えられた傷を癒す力をもっているであろう〉(『歴史主義の成立』)。そういう力を回復することがあらゆる批判をのり越えてできるかどうかは,今後の歴史学・歴史学者に課された最大の課題の一つであろう。
〔参考文献〕アントーニ,新井慎一訳『歴史主義』1973,創文社
マンハイム,徳永恂訳『歴史主義』1970,未来社
ホイシー,佐伯守訳『歴史主義の危機』1974,イザラ書房
トレルチ,近藤勝彦『歴史主義とその諸問題』上巻,1980,ヨルダン社
マイネッケ,菊盛英夫・麻生建訳『歴史主義の成立』上巻,1967,筑摩書房
岸田達也『ドイツ史学思想史研究』 ランケ,鈴木成高・相原信作訳『世界史概観』1941,岩波書店
マイネッケ,中山治一訳『歴史的感覚と歴史の意味』1972,創文社
バラクラフ,前川貞次郎・兼岩正夫訳『転換期の歴史』1964,社会思想社