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歴史学 れきしがく

【中国の史学】『周礼』に五史の官があり,また『礼記』玉藻に〈動は則ち左史之を書し,言は則ち右史之を書す〉とあり,じっさいに周代にそういう史官がおかれたかどうかは曖昧であるにしても,こういうことは『漢書』芸文志にも〈左氏言を記す,右史事を記す〉のであって,言は『尚書』となり,事は『春秋』と為るのである,といわれるように,歴史を記言,記事として,後世に影響を及ぼしている。そして,言も事もすべて天子にかかわることであった。中国の史学は,ここから発生するが,いまは日本の史学に直接関与影響する2・3の点に限って,その特質をみておきたい。まず史体であるが,これは唐の劉知幾の『史通』巻2の「二体」に,『春秋左氏伝』を祖とする編年と『史記』を祖とする紀伝の2体をあげる。すなわち『左伝』の如く事を以って年に繋げるのを編年とし,『史記』『漢書』以下のように,事を以て人に繋げるのを紀伝とする。のちに南宋の袁樞が『通鑑紀事本末』をつくって,司馬光の『資治通鑑』(『左伝』を継承した編年体の通史)の内容を,事を以て題と為し,事件の連続ごとにしたのを紀事本末体とする。年別・人別・事別の史の3体である。『史記』は通史であるが,紀伝の体をはじめ,『漢書』以下の正史といわれるものはすべて断代史になったが,史体は紀伝が踏襲された。『史紀』の本紀,表,書(『漢書』以下では「志」になった),世家,列伝という体裁が受け継がれたのである。『史記』には「太史公日」といい,『漢書』に賛,その他,論・評・議などいろいろであるが,通じていわゆる論賛(『史通』巻4にその論がある)が随時挿入され,歴史評論の場がおかれた。『史記』が史の模範なのは,この点においてもまた最も優れていたからでもある。『史記』は司馬遷が父の司馬談をひきついで書き,『漢書』は班固が父の班彪に続けて書き,またその後を妹の班昭が補ったというように,古の歴史は史官個人の仕事で論賛も一家言であったが,唐以後は史書は役所の官僚分担になってしまった。そして司馬遷の意図は別としても,歴史はつねに支配者に役立つものでなければならず,そのことから「直書」と「鑑戒」が何よりも重視され,その点々からの「褒貶」が大きな特色となる。王者に対してそれが行われるから,歴史は次の王朝からの断代史とならざるを得なかった。『漢書』から『明史』までの正史24史がみなそれである。直書については,杜預の〈「左伝序」が尽くして枉(ま)げず。其の事を直書し,文を具(そな)えて意を見(しめ)す〉と,歴史の意義を説き,『史通』巻7直書も史の務を直書による勧戒であることをいい,されば朱子も〈孔子は但(ただ)実き拠て直書し,而うして善悪自ら著はる〉(『朱子語類大全』巻83春秋)と断じたのである。だから,このことは「太史公自序」にいう〈善を善とし,悪を悪とす〉,杜預「左伝序」の〈悪を懲らして善を勧む〉,『史通』巻10辨職の〈善を彰はし悪を貶す〉ということになり,それは則ち鑑戒なのであった。これについては,早く『詩』大雅に〈殷鑒遠からず夏后の世に在り〉という有名な句が知られ,『貞観政要』巻2太宗の語に〈古を以て鏡と為し,以て興賛を知る可く,人を以て鏡と為し,以て得失を明かにす可し〉とあり,『資治通鑑』神宗序に〈詩書春秋は皆得失の迹を明にし,王道の正を存し,鑑戒を後世に垂るる所以の者也〉とあり,胡三省もその『新註資治通鑑』序に〈善は法と為す可く悪は戒と為す可き者を取りて,以て是の書を為す〉と書いた。そしてこの『資治通鑑』という書名は,最も端的に司馬光の中国史書の果たす意義を語るのである。しかもこの『通鑑』に『春秋』の法を用いた宋代独特の正統論を以てしたのが,朱子の『資治通鑑綱目』であった。こうして,以上の編年と紀伝の体,直書・勧懲・鑑戒・正統の文字と意義,『通鑑』と『綱目』の意図は,そのまますべて日本のとくに近世の林家・水戸家・新井白石の史学にそのまま受けつがれ,感化を与えているのである。

【日本の史学】記紀の撰録には政治的意図があったにしても,『古事記』は帝皇系譜と旧辞すなわち神話・伝説・歌謡を含み,『日本書紀』は中国史書の帝紀の体をとりながらも,神代紀には民俗的伝承が修飾整理された。以後の編年国史がやはり題号を中国にならって「紀」を称し,上表文や序に,中国風の紋切型文字をならべても,内容には文芸的記事や列伝風を交えることがあって,必ずしも先の序にふさわしいとは限らない。国史の最後の二つが「実録」と名付けられたのももっともであった。国史はやはり中国流に政府の仕事として役人や文人によって分担編修されたが,政治が律令官僚制から摂関制に移ると,史書も六国史に代わって,かな書きの「物語」や「かがみ」類の個人の著作になった。この前後関係は中国とはむしろ逆であった。『大鏡』以下の「かがみ」は中国の鑑戒とはちがって,〈新に見ゆるふる鏡〉といい,「大円鏡智のかがみ」といい,むしろ仏教的観念を含む過現未の真相を写す意義に考えられるのである。ただ漢文の公家の歴史『百錬抄』の書名は,白楽天の百錬鏡の詩の知識からきたのであろう。中世最高の史書ともいうべき『愚管抄』と『神皇正統記』は,先の実録歴史からは全く離れ,古代からの歴史を書いても六国史もみないという史論風の著作となり,それも一は天台仏教的道理の論をもって,一は伊勢神道的正理の論をもって,ともに悲運の逆境を超克するためのすぐれて未来記的性格と実践的意図を鼓舞する目的をもつこととなった。それとはちがって『吾妻鏡』(近世儒教史家が『東鑑』と書いて無理に鑑戒の意を考えた)や『太平記』『梅松論』以下の武家の歴史・記録は,戦記といい家記といい,再び実録の性格をもってきたが,やがて中世末・近世初頭その実録的読み物に儒教教義による修飾がみられ,やがて本格的な近世儒教史学が現れるのである。『本朝通鑑』と『大日本史』は,再びその範型を中国式編年体と紀伝体に採り,直書・勧懲・鑑戒・正統を同じく史書の眼目とした。ただ『本朝通鑑』の場合は,理想たるべき筆誅謹厳の『綱目』にならおうとしても,「国朝の事は忌憚する所があり,遠慮なき能わず,ただ実事を記す」と『通鑑』の例によらざるを得なかったし,『史記』に則る『大日本史』に堂々たる論賛ができ上がっても,しょせんはのちに削除される運命にあった。それでも歴史は王室・政権者の有徳・失徳を基準に,そういう一つの根から,治乱興亡という政権の変遷をみる政治史と勧善懲悪を期する道徳史の二面をもつという性格のものとなった。近世の優れた史論書『読史余論』も,根本はまったく同性質のものである。以上のように近世以前は中国史学の影響がおおむね深く浸透していたが,明治初年の『文明論之概略』と『日本開化小史』に主張された啓蒙的文明史観は,近世の政権変遷的政治史を“概して云へば日本国の歴史はなくして日本政府の歴史あるのみ”と攻撃し否定した。さらに明治中期,帝国大学の史学は“勧懲の旧習を洗ふて歴史をみよ”というように,封建史学のもう一つの面すなわち勧懲的道徳史学に対決したのである。この大学の史学は,清朝考証学の系を引く修史館の考証史学とランケ流の史料批判史学とが連結したものであって,この系統の史学が,事実の検証を基礎に歴史叙述を行うということで,しばしば実証史学と呼ばれてきた(この語は日本史家の多くが慣用し,西洋史家の多くが前記の理由からこれを避けるという奇妙な状態がある)。そしてこれから後の日本史学は,先述の近代西洋史学の理論的諸問題をそのまま輸入し受容しつつ,具体の研究を蓄積してきた。ただ第二次世界大戦前から戦中,とくに全体主義史観にもとづく超国家主義歴史学と,戦後それに対する反動もあって,公式主義的マルクス主義歴史学が,それぞれに特有の排他的非寛容の手段と声を大にした挑戦的態度で流行したという事実があった。これは他に例をみない特異の現象といわなければならなかった。しかしまた前述の世界史的風潮とともに,新たな境地と課題が開拓され,ひろめられ,さまざまな方法による具体的研究が深められているのである。

〔参考文献〕ベルンハイム,坂口昂・小野鉄二訳『歴史とは何ぞや』1966,岩波書店

マイヤー=ウェーバー,森岡弘通訳『歴史は科学か』1965,みすず書房

クローチェ羽仁五郎訳『歴史の理論と歴史』1952,岩波書店

グーチ,林健太郎・孝子訳『十九世紀の歴史と歴史家たち』筑摩書房

歴史学叢書 1968〜77,創文社

林健太郎『史学概論(新版)』1970,有斐閣

「現代歴史学の課題」岩波講座『世界歴史』30,1971,岩波書店

林健太郎・沢田昭夫『原典による歴史学の歩み』1974,講談社

岸田達也『ドイツ史学思想史研究』1976,ミネルヴァ書房

内藤虎次郎『支那史学史』1949,弘文堂

川勝義雄『史学論集』中国文明選12,1973,朝日新聞社

坂本太郎『日本の修史と史学』日本歴史新書,1958,至文堂

日本思想史研究会『日本における歴史思想の展開』1965,吉川弘文館

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