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歴史学 れきしがく
人々には、ほんらい歴史的関心というものがあって、ひとが過去をふり返ってみることを通じて、いまの自らの位置や意味を考えようとするとき、ひとはその過去をたずね、調べ、そこから諸々の知識や思考を得てくるのである。そのように過去の事実を調査・研究して得た、具体的事実についての知識、その時間的発展の諸相、それらの連関と綜合の関係、歴史的世界そのものなどについて、一定の学問的方法にもとづいて、組織と体系が与えられると、ここに歴史学という一つの学問が成立するのである。
【歴史ということばの用法】すでに歴史的ということばを使ったが、その「歴史」というのは、そもそもどういう意味で使われているのか。(1)事実をさす。(2)語られ、あるいは書かれた時間的発展の諸事象。(3)記録(4)史書(歴史の本)(5)独立科学としての歴史学(6)俗にこれは歴史的事件であるといわれるときのように、記念すべき、または特別重要な事柄をさす、といったような具合である。以上のうち、(1)(2)はでき事のいわれであり、(3)(4)はその記載・叙述をさし、(5)(6)は、それから別々、むしろ反対の方向に派生したものである。それで歴史ということばは、ヘーゲル以来しばしばいわれるように、(I)客観的出来事の意味と、(II)主観的出来事の叙述という意味と二重に用いられるということになるであろう。以上のことは、歴史ということば、文字の語源、字源に照応することも知られている。
【歴史ということばの意味】ドイツ語のゲシヒテは、物事がおこることを意味する geschehen という動詞からきて、出来事を意味する。(I)を意味しているし、これに対して、英語やフランス語のヒストリー、イストワールはギリシア語のヒストリアに由来するが、この語の動詞ヒストレオは、ある物事をしらべることを意味し、その名詞ヒストリアもたずね、調べて得た知識の意味から、その知識について物語り、また記述されたものをいうことになった。ヘロドトスの『ヒストリアイ』はそれであった。つまり(II)の意味である。また漢語の「歴史」というのは、歴史の史の意味で、そこで史学と歴史学は、使う人の語感の問題を別にして全く同義に用いられるが、その「史」とは事を書き記す役人のことであって、史の文字の含意また字源は、『説文』以来、中と又の合字、手に中をもつこと、中正をもたねばならぬ史官をいう。一説に竹札を手にもち数えて記録する人、または祝器を手にもち、物語を伝え記す人ともいい、いずれにしても記録官で(古代日本の史=文人=ふびと、も同じ)、これが転じて記録、さらに歴史としての記述、つまり先の(II)の意味となった。記録・文書を意味する番、記、紀もほぼ同様にして歴史をさす。『史記』『漢書』『漢紀』がそれで、『古事記』『日本書紀』の記・書・紀も、もちろん同じである。
【歴史叙述の性格】歴史には、さらにいろいろの性質がある。かつてヘーゲルはその『歴史哲学講義』において、歴史を考察する仕方を考えて、a)原本的歴史、b)反省的歴史、そしてこのなかに、aa)一般史、bb)実用的、cc)批判的、dd)特殊部分史の4種をあげ、さらに c)哲学的という3類の歴史の性質を区分して、それぞれに説明を与えた。それを継承してベルンハイムがその『歴史学入門』に、歴史叙述の発展を継起的・段階的に、1.物語風歴史 2.教訓的(実用的)歴史、3.発展的(発生的)歴史という3段階として述べたことは周知のこととなって、その後これに慣うこともしばしば行われてきた。たしかに歴史叙述の発達を考えて、一応の目安として概観するには好都合ではあろうが、しかし、厳密な史学史的考察にはとうてい堪え得ないこともまた自明であろう。なお、以上とはまったく別の立場と態度から、そして歴史家的発言ではないが、ニーチェが、歴史の生に対する利弊の関係を考えて、行動し努力する人のものである記念碑的、保存・拝跪の骨董的、苦悩し解放を求める批判的の3様式を区別したこと(1873−76)も想起しておこう。さらに後年クローチェが『歴史の理論と歴史(1915)』のなかで、年代記・文献学・そのほかの詩的歴史、さらに政策や倫理や娯楽などと結びつく弁論的・修辞的・実利主義的歴史、傾向歴史など、倫理のもので歴史のものでない歴史の諸型を排して、歴史理解の真実に迫ろうとする主張もあった。ついでながら、歴史学以前の問題として通俗に人が歴史に対する態度をみると、物語没入型・展望型・実用型・実践型とでもいうべき諸種の姿勢があるようだが、さきのニーチェやクローチェの主張にはこれら諸型の根拠と意味を示唆して、あらためて学としての歴史を考える道をさし示す方向があるようにみえる。
【史料】記録や年代記の類は、そのままでは歴史にならないと同時に、歴史学の出発点にあるといえる。史学研究法の著書としてベルンハイムのそれと並んで有名であったラングロワとセーニョボス共著の『歴史学入門』もこの点を重視して、研究者に影響を与えてきた。もっとも、これもクローチェ的に、まず現在の歴史があって、然る後史料がある、といい換えるべきかもしれないが、ともかく史料を蒐集・発見・調査・批判しなければ歴史学は素手では成立しないのである。そしてそのような史料について、ベルンハイムは「史料学」といって、まずその分類を試みた。ただし、クローチェは、そのような分類法を不合理として排しているが、普通にはそういう分類はしばしば試みられて受け容れられていることが多い。そこで試みに諸説を参照、私見による史料分類整理を表示してみよう。
I 遺跡・遺存物(遺されたもの)
1. たまたま残ったもの
(1)人骨・器具(装飾品・銭貨なども)、作品(印章・紋章なども)、言語
(2)風俗・習慣(風習)・慣習(習俗)・儀礼・制度
(3)古墳・古聚落・城郭城址
(4)古文書・古記録
2. 記念的に遺す目的のもの
(1)記念的工作物および作品
(2)金石文・証拠書類
II 伝承(伝えられたもの)
1. 口碑(言語伝承)
(1)説話・伝説・神話
(2)歌謡・物語・文学
(3)俚諺・逸話・童話(お伽噺)
2. 文献(文字伝承)
(1)年代記・系譜
(2)文書・記録・稿本・編著書
(3)伝記・回想録
3. 芸能
(1)絵画・彫刻・建築
(2)詩歌音楽(詞章・楽譜)、舞踊
歴史学の立場からいうこれらの史料、つまり文化財は、またそれ自体が独自の方法によって独立の学問となる。すなわち人類学・民族学・民俗学・言語学・考古学などであり、また神話学・宗教学・文献学そのほか法制史・文学史・芸術史、あるいは社会学・心理学・倫理学など、日本でいわゆる人文諸科学・多部門の社会諸科学であるのはいうまでもない。それはもはや歴史学の資料というのではなく、それから諸学の研究成果を、歴史学はその立場から学びとり入れねばならないのである。それら諸学もまたそれぞれの方法において、歴史学から学ぶところも多いであろう。
【歴史のみかた・歴史観】歴史学はその史料取扱技法、具体性・時間性という独自の方法と立場を確保していなければならないが、それは歴史をどのように観じ、どのような方法でとらえるか、という歴史観からきめられてくるであろう。歴史観それ自体を学問的対象にすることは、もはや歴史哲学に属することであって、あまり立ち入ることはできない。しかし、史学史の課題としても、歴史世界解釈の原理として、最初に現れた史観が、中世におけるアウグスティヌスの『神の国』にみられた地上の国から神の国への神意の啓示とする二元的神政史観と呼ばれる史観であったこと、そして近世にいたって、自由の理念の発展を歴史とするヘーゲルの観念論史観、これに対して自然科学的方法によるコントの実証主義史観、またはダーウィンの進化論を歴史発展の原理に適用したり、あるいは自然界の現象たとえば地理的環境決定論のような素朴唯物史観、さらには生産・生産関係などの経済因子にもとづく、マルクスのマルクス主義唯物史観といったようなさまざまの歴史観が、それぞれ歴史解釈を豊かにし、歴史の世界をひろめ、または深めてきたことを見落とすことはできないであろう。さらに歴史観は、具体的な個々の歴史研究の対象や方法と結びついて、政治史観とか文化史観とか呼ばれる用法があり、なお必ずしも学問研究と結びつかなくとも、通俗的に歴史に対する姿勢・態度をさして、たとえば英雄史観・人民史観とか、また範ちゅうを異にして皇国史観とか階級史観のようなことばも通用している。
【歴史の対象と方法、政治史と文化史】どのような歴史観にもとづこうとも、歴史を考究するとき、何を軸心にするかということが、歴史世界の対象と方法とその意味をきめていく。政治史と文化史の対立はここに現れてくる。由来、歴史学は近代以前はどこでも為政者・支配層のものであった、という性質からも、歴史の対象は国家と政治、外交と戦争が主であった、という運命を免れなかった。とりわけランケ以降の、そしてドイツのみならず、近代のいわば国際的歴史学の主流がそこにあったことには異論はないであろう。これに対してむしろ社会と経済生活、文化と人間性一般を重視する立場があり、前者はフリードリヒ=リストを先駆とするドイツ歴史学派経済学者ヒルデブラントやシュモーラーらによる歴史における経済発展段階説の提唱となって、社会経済史の新分野を開拓することともなる。そして経済発展段階説は、マルクスによって周知の如く政治実践の理論に転化し、一方やがて心理学や社会学の成果と結んでランプレヒトやブライジヒの歴史段階理論に発展する。政治史に対立する後者、すなわち文化と人間性一般重視の立場については、フランスのヴォルテールを先駆にシャトーブリアンに部分的に現れ、ギゾーに主張され、そして、スイスのブルクハルトに典型的に実現されたような文化史の潮流があって、今に続いている。とりわけ経済史に出発して、後年は文化史・精神史を主張したランプレヒトが、正統的政治史が歴史の契機として金科玉条とした事実の個別性、個人の自由意志、支配的諸理念に挑戦し、代わって集団的・法則的・科学的文化史を提唱したことが有名である。これに対しては古代史家マイアー、中世史家ペロー、その他ドイツの代表的史家の多くが激しく反対し、数年にわたる「文化史論争」として国際的にも大きな波紋をまきおこした。そしてこの論争の過程に、政治史と文化史は、歴史の対象の問題をはるかにのりこえて、歴史の方法についてまた新たな課題をひきおこした。
【歴史の課題、個別性と法則性】政治はすぐれて個人の意志と行為に属し、歴史における自由意志および偶然の契機に連なり、個別性の意義の探究にむかわせる。これに対して、文化はつねに集団の在り方に属し、傾向や類型や法則の課題に及ぶのである。かつてイギリスのバックルが、コントの実証主義の立場から、正統派政治史の非科学性に嘲罵と非難を浴びせたとき、ドロイゼンは、普遍的法則から史的事実を証明して歴史を科学に高めるつもりでも、それはかえって歴史を自然科学の埓内におくものだと反撃して、倫理的世界に属する人間の行為の意義を強調した。個別性と法則性について、次に来るのがいま述べたランプレヒトの『ドイツ史(1894)』第1巻第2版の序論に開始された「文化史論争」であった。そのとき政治史家の反撃に強力な援助を与えたのがヴィンデルバントとその門下リックルトの価値学説による「歴史」科学論および「文化科学」における「個性記述的」の意義の、哲学的基礎付けがあったことを忘れることができない(これは大正期の日本歴史学界に深い影響を与えた)。一方、ランプレヒトが自説を綜合したともいうべきアメリカでの講演「近代歴史学(英語版ともに1905)』の社会心理的方法の影響・感化もまた後々まで絶えなかった。第二次世界大戦後、フランスの経済・社会史の雑誌「年報」(アナールの雑誌は、第二次世界大戦の犠牲となったマルク=ブロックと僚友ルュシアン=フェーヴルの両史家によって「経済社会史年報」として1929年に創刊された)に拠るフェーヴルたちが、セーニョボスにみられる伝統的政治史のいわゆる「事件史」ではなく、社会の全体的な合理的解釈を志向して歴史学の革新を主張したとき、ドイツ正統派政治史すなわち伝統史学を固守する西ドイツのゲルハルト=リッターが、歴史の本質は社会経済史でなく、自由の力にもとづく政治史の伝統にあることを主張したのも、歴史における法則性と個別性についての第3の歴史論争といえるのであろう。しかし一方、西ドイツにおいても伝統的政治史への反省にもとづいて、その内部からヴェルナー=コンツェやテオドル=シーダーが、この『年報(アナール)』派に好意を寄せ、またその影響を受けながら、新たな「構造史」を主唱し、しかもここには「事件史」との対立の結合・吸収・解消の志向も現れている。
【西洋の歴史学】ギリシア人と異民族(バルバロイ)との戦いの事跡の数々を記した『ヒストリア』を書いたヘロドトスは、このペルシア戦争について、「自ら調べたところを書き述べた。伝えられたままを伝える」というのであった。ブルクハルトが『ギリシア文化史(1892〜1902)』で、オリエントについて記録はあっても歴史叙述はなかった、というように、この小アジア出身のヘロドトスが「歴史の父」(キケロ『法律論』から)と呼ばれたことは誰もがいうことであり、歴史叙述がここから始まった、とされるのである。もっともヘロドトス自身が「史伝作者のヘカタイオス」を引用するけれども、それは伝説を内容としたものらしく、それも伝存しないから、その次には半世紀遅れたアテナイ出身の、トゥキディデスの史書が来る。モーリッツ=リッターの『歴史学の発達(1919)』は、トゥキディデスから始めるが、それも、ヘロドトスの著書が地誌や伝承や風俗や物語などがいわば混合していたのに対し、これは、自ら伝説的要素を除いた記述であって、出来事の真相をみようとし、世々の遺産たるべきを志したといい、じじつ年代的に正確な事実を求めて、はじめての政治史が書かれた、という点に着眼があったからであろう。批判的歴史の最初とされるのである。ローマの時代のいくつかの史書も、それぞれ特色はあるにしても、ほぼ同時代史的、ないし年代記的記述を主とするに止まった。アウグスティヌスのキリスト教思想にもとづく二元的神政史観は、それを脱する傾向をみせはしても、その著述はしょせん歴史記述そのものではない。歴史記述はルネサンスに文字通り再び現われるのであって、しかもそれはマキャヴェリとクィッチアルディニのフィレンツェの歴史が典型的に語るように、ルネサンスの力と富の誇示の表現のしかたなのであった。17世紀懐疑論の時代は歴史記述にとっての稔りは少ないが、反歴史的といわれた啓蒙の18世紀に、かえって注目すべき歴史記述が出現する。イタリアのヴィコ、フランスのヴォルテール・テュルゴー・コンドルセ、イギリスのヒューム・ロバートソン・ファーガソン・ギボンたちの著書であり、ドイツのフリードリヒ2世・ヘルダーもここに数えてよいであろう。それらは歴史の内的関連・時代の精神・理性の進歩に窓を開き、あるいは国民や遠い過去の世界への反省、時代の固有の意義への認識に眼をむけるものであった。18世紀の「理性の世紀」に代わって19世紀の「歴史の世紀」が始まると、とりわけドイツではにわかに歴史意識が高揚した。ニーブールに端初が開かれ、ランケ・ドロイゼン・ジーベル・モムゼン・トライチュケにいたるプロイセン学派、歴史主義の歴史家たちのそれぞれに特色のある活動であり、それはさらに20世紀にかけて、エドアルト=マイアー・トレルチ・マイネッケ・デヒー・ゲルハルト=リッターと継承されるドイツ正統派政治史学すなわちいわゆる伝統的歴史学を形成する。そしてこれらのドイツ史家の立場は、個人の自由意志の実現という理想主義的態度から、歴史的行為の意味関連をそれ自体から理解しようとする歴史主義に支えられていた。マイネッケの『歴史主義の成立(1936)』は、個別の意義の認識と、雑多のものの因果的発達でなくその統一的発展の理解を論じている。そのための学的方法として、基本的にはランケの有名なことば“それは本来どうであったか”に出立する史料批判、史学の立場を堅持するのである。ただしバックルの実証主義史学を批判したドロイゼンは、またランケ流史料批判の実証史学の方法をも採らない「『史学綱要(1868)』」。そしてこの史学は、史料批判によって得られる正確な事実の検証を重視する歴史というほどの意味で、日本ではよく実証史学と呼ばれ、また現代フランスで「歴史のための歴史」また前述の「事件史」と呼ばれて批判の対象とされているものである。この史料批判的・伝統的政治史学に対しては、コントの実証哲学の流れを汲む実証主義史学が、フランスではテーヌ、ルナンに継承され、デュルケームの社会学の客観的方法論に入り込む。また前記のバックル、ランプレヒト、ブライジヒらに主張された、反理想主義・反歴史主義の立場であって、これは自然科学的方法による確実な証拠(実験)による個々の客観的事実を確認、事実間の因果関係を確定して、帰納・一般化から法則を発見しようとするのである。歴史法則といえば、この時代にマルクスとエンゲルスによって、史的唯物論・階級史観にもとづく法則科学としての歴史学の主張と潮流が形づくられ、その影響は甚大であった。「歴史の世紀」のヨーロッパでは、ほかにフランスにはシャトーブリアンについで、革命史において、年代記のバラントやティエリは物語派といわれ、またギゾーは哲学派と称され、ミニェ、ティエールは宿命論派と呼ばれ、さらにミシュレ、キネー、トクヴィル、ほかにアンリ=マルタン、テーヌ、ルナン、フュステル=ド=クーランジュというふうに、それぞれに多彩な史風をもって19世紀史学の高い群峰を示した。ちなみに、革命史ではこのあと20世紀のはじめオーラール、ジョレス、マティエ、ルフェーヴルの業績が著しい。さらにスイスにはブルクハルト、イタリアにはヴィラリ、イギリスにはカーライル、マコーレー、バックル、シーリー、メイトランドと、この世紀の歴史学を稔り豊かにしたのである。20世紀には二つの大戦をはさんで、歴史学界にもさまざまな大きな変化が現れた。新カント派の価値学説による文化科学論のほかに、同じころ、リッケルトに対立したディルタイやジンメルの精神諸科学の論や生の哲学が、歴史観に少なからぬ感化を与えた。とくにリッケルトとディルタイの影響下にマックス=ウェーバーが社会科学の理論に新生面を開き、その理念型類型概念は、歴史学の法則観に大きな刺激を与えることになった。クローチェやトレルチにみる主観的構想力の問題、歴史主義の危機の問題、ブルクハルトの文化史をつぐオランダのホイジンガの『中世の秋(1919)』その他の新しい文化史の提唱、イギリスのトインビーの『歴史の研究(1934〜61)』での文明の類型と典型の課題、またデュルケムの系を引く前述のフランスの『年報(アナール)』派の社会経済史、それと関連をもち、さらにまたホイジンガやトインビーからの刺激をうけとめている西ドイツの「構造史」(これは歴史世界の構造変化に対応し、政治的行動、社会構造、技術・工業、精神的態度などの諸要素の歴史的考察のしかたをいい、日本のマルクス史学のいう社会構成史とは違う)の提唱、またオーストリア出身のイギリス人ポパーの『歴史主義の貧困(1957)』にみるように、型や法則の発見によって、歴史的な予測を目的とするやり方をひとり特異の“歴史主義”(historicism, これは Historismus とは反対の方向に分かれるまったくの別のもの)と呼んで、こういう歴史的宿命論を迷信として却ける主張、さらには近代アメリカにみる実用主義の潮流など、多様の立場と論議は絶えない。そしてこの間、政治史と文化史の関係も、グーチのように方法は題目によって異なるとして、対立の解消を志す方向がある。また個別の意義と法則の問題も、歴史学である以上、個別の意義が抹消されることはあり得ないとともに、全体論的法則観に固執することなく、唯一の法則でなく諸法則をとらえ、先の理念型・類型・条件・傾向などの考察の導入を考えることは、マルクス主義史学を除けば、多く異論のないようにみえる。個別の意義と法則的一般は、相互媒介によってともに生きる方向と通路が、以上の20世紀歴史学のなかに現れているのであろう。政治史と文化史の対立は補完し合って解消、個別性と法則性は両立の方向である。
(1/2:続く)
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