●レオナルド=ダ=ヴィンチ
ヨーロッパ イタリア共和国 AD1452 両シチリア王国
1452〜1519 ルネサンスを代表するイタリアの芸術家・科学者。フィレンツェ近くのヴィンチ村に生まれたので,その呼び名がある。幼時から数学・音楽に天分をみせたが,とくに絵にひいでていたので,父親が,友人で当時フィレンツェを代表する彫刻家・画家だったヴェロツキオの工房に弟子入りさせた。こうして彼の経歴は,確かに画業から出発する。しかし彼を単なる一芸術家と捉えるのは,その巨大さをあまりに狭めることになるだろう。彼はルネサンス的意味での“万能の人(ウォーモ・ウニヴェルサーレ)”だった。ルネサンスの人間主義によって,人間は“神の代理人”の位置に押し上げられた。中世キリスト教神学の新たな意味替えである。それによって,人間は神と同じく“万能”たるべきものとされた。そこにルネサンスの理想主義がある。レオナルドはその理想主義を最も良く体現した人物だった。レオナルドの良くした音楽・数学・自然科学あるいは美術等は,今でこそそれぞれ独立の専門領域に分化してしまっている。しかし西欧中世ではこれらはすべて一つながりの連関のなかにあった。音楽は地上にくだる“天上の声”であり,一定の秩序に従って調和的に運行する星辰の音とされた。“和声=harmony”という音楽用語は今もその伝統の跡を伝えている。だから音楽を究めることは,音の調和的比例関係を深めることだった。すなわち数学である。数学の目的はまたしても,数の調和的比例関係を探ることにあった。その調和性の根源は,宇宙・星辰・森羅万象の秩序性に求められる。神学の前提によれば,神の創造にかかる万物は秩序ある法則性のなかに存在しなければならないからである。こうして数学はまた天文学であり,万物の法則性を探ることすなわち自然科学であった。美術もまた視覚像を再現することにほかならなかった。こうしてすべては一線に連なり,芸術は科学と一致する。レオナルドにおいても,造型の活動は常にそうした綜合的な自然探究の一環として進められている。彼は20代の半ばにはフィレンツェで独立の画家となり,「ジネヴラ=デ=ベンチ像」,「三王の礼拝」(未完)等の作品を残した。すでにマサッチョ,ウッチェッロら初期ルネサンスの画家たちの手で,線遠近法による三次元的空間表現の技法が生みだされていたが,次なる課題は線ではなく面によって立体の量感をいかに表現するかに向けられた。レオナルドは光の媒体としての大気の厚味の表現に腐心し,微妙な明暗の段階づけによって丸やかな肉付けを生みだすことに成功した。一般に空気遠近法と呼ばれるこの技法によって,マサッチョらでは未だしの感のあった前景・中景・遠景をなだらかに連続する統一的空間として表現する課題が解決され,以後の西欧絵画を一変させるほど多大な影響を及ぼしたのであった。1482年,30歳の彼はミラノに移り,以後16年間そこの宮廷に仕える。このとき彼は10カ条からなる自薦状をミラノ君主に提出するが,そのほとんどは技術者としての自己紹介で,最後に〈平和時には〉建築・絵画・彫刻も手がける,と但し書きしているにすぎない。そこにもレオナルドの自身の営爲の位置づけが伺われる。そして事実彼はこの時期もっぱら自然研究と数学と絵画論の著述に没頭する。彼の関心はすでに空間の単なる視覚的再現ではなく,不可視の精神を形象化することに向けられていた。〈魂の意向を身振りと体の動きで表現する〉と絵画論でのべるように,心身の統一態としての人間のリアルな表現を目指せば必然の帰結である。その探求は,1498年,“最後の晩餐”として凝結される。その後,ふたたびフィレンツェに帰った彼は,不朽の名作「モナ=リザ」を遺す。一人の生ま身の女性を捉えて不動の永遠的な美に結晶させたこの肖像画は,ルネサンス理想主義が昇りつめた頂点というべきであろう。だが一介の私人にすぎぬ彼は,すでに政情不安にゆれるイタリアで安住の地もなく,ふたたびミラノへ,さらにローマへと転々と脱れ,1516年,フランス国王の招きに応じ,3年後そこに没した。だがこの3年の滞仏は,後のフランス絵画繁栄の基礎をつくるうえで測りしれない意味をもった。だがそうした画業以上に,4,000ページをこえる手記が,その後の自然科学の発展にどれほど寄与したかしれぬことを,この巨人の貢献の第一にあげるべきであろう。
![]()