●冷戦 れいせん
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武力行使をしない戦争の意味で使われる。【言葉】第二次世界大戦直後の1947年,アメリカ・ソ連の対立が著しく緊張したとき,当時の国際連合原子力管理委員会のアメリカ代表バーナード=バルークがこのことばを初めて使用したという説が有力であるが,同年アメリカの外交評論家ウォルター=リップマンが,ニューヨーク=ヘラルド=トリビューン紙に,「コールド=ウォー」という標題の評論を発表したことによって,このことばが世界的に普及した。このように主として,第二次世界大戦後顕在化したアメリカ・ソ連関係の対立を中核とする国際政治の緊迫状態を指す用語として発生したところから,特定の歴史現象として冷戦という用語を使用するのが本来の姿である。しかし一方で,熱戦に発展する前の対立状態という意味合いを含んだ用語でもあるため,歴史のどの時代にも現れる類似の現象にまで「冷戦」を比喩的に拡大して使用する論者もある。ここではそのような一般的用語法としてでなく,特定の歴史的用語法としてとりあげる。
【ヤルタ会談以降】第二次世界大戦末期の1945年2月4〜11日に開かれたヤルタ会談は,戦後のアメリカ・ソ連2極構造時代への路線を設定した国際会談であり,その前提として,第二次世界大戦中の協力関係にもとづく恒久的なアメリカ・ソ連協調体制の樹立を期待していた。しかし,同年4月12日のルーズヴェルトの急逝に伴うトルーマン大統領昇任によってアメリカの対ソ政策は変化し,とくに新生ポーランドの新政権の樹立をめぐるアメリカ・ソ連関係の緊迫化とともに,アメリカの政策決定者はアメリカ・ソ連協調の瓦解を意識した。ソ連も1946年以後,2極的なジュダノフ路線に沿ってイラン,ドイツ,チェコスロヴァキアへの勢力進出を画策するに及び,同年3月5日,訪米中のイギリスの前首相チャーチルがミズーリ州フルトンで,共産主義の「鉄のカーテン」に対抗するための英語国民の結束を強調する演説を行った。ついで1947年3月12日,トルーマン大統領のもとでギリシア,トルコに経済援助を与える法律を可決した。これがトルーマン=ドクトリンと呼ばれる宣言で,冷戦の宣戦布告として知られている。さらに同年6月5日,アメリカは国務長官の名前で知られるマーシャル=プランを発表し,ヨーロッパの資本主義的再建の具体策を示し,反ソ政策を積極化した。これに対してソ連が同年9月22〜27日にポーランドで,ソ連,ルーマニア,ブルガリア,ハンガリー,ポーランド,チェコスロヴァキア,ユーゴスラヴィア,フランス,イタリアの9カ国の共産党・労働者党の会議を招集し,10月5日にコミンフォルムの設置を公表したことによって,アメリカ・ソ連対立がいよいよ顕在化した。アメリカの対ソ政策は「封じ込め」政策として知られ,ソ連を包囲することによって内部崩壊を期待したが,それに対抗してソ連の対外政策も硬直化し,西側に衝撃を与えた1948年2月のチェコスロヴァキアの政変,同年6月から翌1949年5月にいたるあいだのベルリン封鎖をめぐる東西緊張,そのあいだに分立への道を選択したドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)の成立など,とりわけドイツ問題が冷戦の最先端となって緊張した。1949年4月,アメリカを先頭とする西側は北大西洋条約機構(NATO)を結成して東側に対抗する軍事同盟を形成したのに対し,同年9月,ソ連が原爆を保有していることを明らかにし,アメリカによる核兵器の独占体制が崩れた。1949年10月1日の中華人民共和国の成立をめぐり,冷戦はヨーロッパからアジアに拡大されたのみでなく,北緯38度線で対峙していた南の大韓民国と北の朝鮮民主主義人民共和国とのあいだに軍事衝突が発生した。これが1953年7月27日の朝鮮休戦協定の調印まで戦われた朝鮮戦争で,冷戦のワクを越えた戦争になった。1953年3月5日のソ連首相スターリンの急逝のあと,国際緊張の雪どけが語られるようになり,アジア・アフリカの新興諸国の国際政治への登場を意味する1955年4月18日のバンドン会議やスターリン批判で知られた1956年2月24日のソ連共産党第20回党大会などをへて,国際環境においては軍縮や経済問題に重点をおく平和共存の雰囲気が高まった。しかし,その後も国際情勢の変動は激しく,冷戦状況は根本的には消滅していない。
〔参考文献〕永井陽之助『冷戦の起源』1978,中央公論社
『冷戦―その虚構と実像―』国際政治53,1975,有斐閣