●ルーム=セルジューク朝 ルーム=セルジュークちょう
AD1077
1077〜1308 小アジア・アナトリア(ルーム)に建国したセルジューク朝トルコの一分派。ルームは本来ローマの意味で,イスラームの著者らが,ビザンティン帝国のギリシア人およびその領域をさして用いたが,さらに主として小アジアをさすにいたった。王朝の始祖スライマン=ブン=クトルムシュは,セルジューク朝の始祖トゥグリル=ベクの従兄弟に当たり,セルジューク朝第2代スルタン,アルプ=アルスラーンが,1071年ビザンティン軍を撃破したマラーズギルドの戦いの後,アナトリアに入り,ニケーア(イズニク)を占領して,1077年ルーム=セルジューク朝の独立を宣言した。彼はシリア方面に東進を開始したが,アレッポ付近で戦死し(1086),6年の空位期をへて,遺子キリジ=アルスラーン1世により王朝は復活した。再建早々に彼は第1次十字軍(1096〜99)の攻撃を受け,ついで第4代のルクネッディン=メスウート1世の時代にも第2次十字軍(1147〜49)との抗争を余儀なくされ,首都をアナトリア中南部のコニヤ(ローマ時代はイコニウム)に移す有様であった。第5代のキリジ=アルスラーン2世の没後,王統は分裂して12の併立勢力となったが,第8代ルクネッディン=スライマーン=シャーの再統一につづいて,王朝最大のスルタン,アラー=エッディン=カイ=クバート1世(在位1219/1220〜37)が,コニヤで登位するに及んで黄金時代を迎え,数世紀のあいだかつて見られなかったルームの繁栄をとりもどした。すなわち,この時代にはコニヤを中心に各種の施設の造営が進められ,経済的発展もいちじるしく,文芸史上からも注目すべき時期であったといわれる。有能な君主・優れた軍の指揮者・敏腕な外交家との名声が高いカイ=クバート1世は,アルメニア人が領有していた地中海東岸の重要地点を取得して,ルーム=セルジュークの宗主権を認めさせるとともに,歳貢以外に軍団への補充兵員の提供を義務づけた。ついでエジプトのアイユーブ朝と和親関係を樹立して,これと連合してフワーリズム=シャーに大打撃を与え(1230),その西進を阻止して,小アジアの安泰を保持した。しかし,その後は無能なスルタンがつづき,西進を策するモンゴル勢力に抗すべきすべもなく,1243年ノヤン=パイジュ(諾延拝住)の率いるモンゴル軍に,シワス東方のキヨセ=ダグで敗れ,巨額の歳貢を支払い,以後事実上イル=汗国の属州と化し,コニヤのスルタンらは,虚位を擁するのみで,権臣たちがモンゴルの監督下に執政した。この間に内的には反モンゴル気運もおこり,対外的にはエジプトのマルムーク朝との連繋も空しく,1308年ギヤス=エッディン=メスウート2世(3世説もある)の,副都カイサーリーアでの急死により滅亡した。
〔参考文献〕羽田明『イスラーム国家の完成』岩波講座世界歴史8,1969,岩波書店
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