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●ルーマニア

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 正式国名は,Socialist Republic of Rumania。本国では,ロムーニア(Romania)といい,ローマ人の国を意味する。バルカン半島北東部にある社会主義国で,周囲を北から左回りに,ソ連・ハンガリー・ユーゴスラヴィア・ブルガリアに囲まれ,東方で黒海に接する。面積約23万7,500平方km。人口約2,270万人(1996)。首都はブカレスト。全人口中ルーマニア人が87.7%を占めるが,中部から北西部にかけてハンガリー人(8.4%)・ドイツ人(2.0%)が住むほか,ジプシー・ウクライナ人・セルビア人・ロシア人・ユダヤ人・トルコ人・タタール人スロヴァキア人などの少数民族がいる。ルーマニア本国以外に,255万人のルーマニア人がソ連のモルダヴィア共和国(旧ベッサラビア)に住んでおり,またギリシア北部・ユーゴ南部・アルバニアその他にルーマニア語と同系のことばを使う放牧民(ヴラク・ヴラフ等と呼ばれる)が散在している。

 地形的には,中央の山地とドナウ川流域などの平地とが対照をなして存在している。山地は国土全体の26%,丘陵が39%,平野が35%を占めている。最大の特徴は,チェコスロヴァキアのタトラ山脈に連なるカルパチア山脈がウクライナ南部からルーマニア北部に入り,南東にむかって同国を斜めに貫き,ブカレスト北方で急角度に西へ湾曲し,南カルパチア山脈(別称トランシルヴァニア=アルプス)を形成していることである。この巨大な弧状の山脈に囲まれた部分はトランシルヴァニア盆地で,牧畜や農業のほか近年には工業化もすすんでいる。南カルパチア山脈とドナウ川に挟まれた広い平野と台地は,かつてのワラキア,いまのオルテニア地方であり,重要な農業地帯であるが,石油を産出するために工業化もすすんでいる。プルート川に沿って南北に伸びる東北地方は,かつてのモルダヴィアで,ウクライナつづきの黒土地帯であるとともに,ガラツィなどの工業中心地を含んでいる。ドナウ川が黒海に注ぐソ連との国境地帯は沼地の三角洲をなしているが,その南の黒海沿いの地帯は,ブルガリアにつながるドブルジア地方で,その多くが農地となっているほか,コンスタンツァなどの港や国際的な観光海岸を擁している。国土のうち平野部の多くは,雨の少ない大陸性気候である。同国は伝統的に農業国であったが,石油・天然ガスをはじめ,石炭・亜鉛・マンガン・ボーキサイト等の天然資源に恵まれ,第二次世界大戦後は工業,ことに化学工業がめざましく伸びた。生産国民所得中の工業の比重は戦前は30%前後であったが,1960年代半ばに50%を超えた。農村の社会主義セクターは1960年代に90%台に達した。

【従属と独立】ルーマニア地域は,中央アジアやロシアから中欧へ抜け,また中欧から中東方面へ通じる交通の要路であり,古来多数の種族が同地を通過し,足跡を残した。古代には同地にダキア人が居住していたが,古代ローマのトラヤヌス帝(在位98〜117)の時代にその支配下に入り,ラテン系のことばと文化を受け入れた。しかし西ゴート族が侵入し,ローマは271年にドナウ南部へ帝国を撤収した。その後ダキア人がどうなったかについては諸説が分かれているが,いずれにせよこの地域には,そのあとスラヴ族アヴァール族・ブルガール族・マジャール族などが押し寄せた。ルーマニア人はハンガリーの支配を受け入れ,これら諸種族と混血しながら,13世紀には同地に再定住した。同世紀末に南カルパチア山脈南方にワラキア公国が形成され,1330年にはバサラブ公(在位1310〜52)がハンガリーの内紛に乗じて独立を達成した。プルート川下流地域でも,14世紀中ごろボグダン(在位1359〜65)によってモルダヴィア公国が築かれたが,まもなくハンガリーの宗主権を受け入れた。14世紀にバルカン半島に侵入したオスマン=トルコは,ワラキアを攻略し1415年に宗主権を認めさせた。シュテファン3世(在位1457〜1504)治下のモルダヴィアは,トルコの進撃を食い止めて領土を北と東に拡張したが,シュテファンの死後トルコの宗主権下に入った。16世紀末のワラキアのミハイ勇敢王(在位1593〜1601)は,トルコ軍を両公国から駆逐したばかりか,トランシルヴァニア・ベッサラビアをも支配下に収め,“大ルーマニア”を一時的に実現したが,その死後トルコの支配が復活した。

 18世紀初めにロシアのピョートル大帝(在位1682〜1725)は,モルダヴィア・ワラキア2公国と同盟を結んでトルコと交戦した。ロシアはこのときは敗北し,トルコは2公国に“ファナリオット”(ギリシア人官僚)を支配者として送り込んだ。18世紀後半になるとトルコの衰退はさらに進行し,1768年からの露土戦争に敗北して,1774年の条約により2公国に対するロシアの影響力を認めるにいたった。1806年に開始された露土戦争のあと,1812年の条約によりトルコはベッサラビアをロシアに譲った。1821年にギリシア人が2公国を舞台に,ギリシア独立戦争狼煙を上げた際に,ウラジミレスクに率いられるルーマニアの農民が対土蜂起を試みたが,失敗に終わった。1848年の“諸国民の春”に2公国でも革命が発生したが,トルコとロシアが共同でそれを鎮圧した。クリミア戦争でのロシア敗北後のパリ講和条約(1856)では,2公国をロシアの影響から切り離してトルコの宗主権下に戻す代わりに,その政治形態は2公国の議会の意向を尊重して決めることとされた。1859年に別々に開かれた2公国の議会は,クーザ大公という同一人物をそれぞれの大公に選出した。クーザはトルコを説得して,1861年に2公国を統合することに成功し,ブカレストを首都とし,国名をルーマニアとする自治公国が成立した。他方,クーザは各種の改革をすすめようとして,地主層などの反感を買い1866年に失脚,プロイセンからカルル王子が迎えられてカロル1世(在位:公1866〜81,王1881〜1914)を名乗った。カロルは1877年の露土戦争にロシア側に立って参加し,1878年のベルリン条約により完全独立を国際的に認めさせた。

【ルーマニア王国の発展】ルーマニア王国では,西欧の議会制度が形だけ導入されたが,政局はつねに不安定であった。土地所有構造は,ヨーロッパで最も不均衡なままで,収奪に苦しんだ農民たちは,1907年の大蜂起のようにしばしば暴動をおこした。対外関係ではドイツ出身のカロルは,領土問題をめぐるロシアとの不和も手伝って,1883年にドイツ・オーストリア=ハンガリーと秘密同盟条約を結んだ。1913年の第2次バルカン戦争でルーマニアは,セルビア・ギリシアの側に立って孤立したブルガリアを攻撃し,ブカレスト条約によりブルガリアから南ドブルジアを奪った。第一次世界大戦に当初中立を宣言したルーマニアは,トランシルヴァニアの提供を申し出た協商側と,ベッサラビアの領有を約束する中央同盟側のどちらに立つか迷いつづけたが,1916年に協商側に立って参戦した。しかし戦場では敗れ,1918年4月に中央同盟と単独講和を結んだものの,後者の敗色が濃くなった11月には再びそれに宣戦し,“戦勝者”の地位を確保した。戦争の結果領土は倍増し,永年の夢であった“大ルーマニア”が実現した。まず,ロシアの10月革命後の混乱期に,ベッサラビアのルーマニア人は「評議会」を開催し,ルーマニア軍を導入した上で,1918年4月にルーマニアとの合併を決定した。また,オーストリア=ハンガリーの敗戦後,トランシルヴァニアのルーマニア人は民族大集会を開き,同地のルーマニアとの合併を決議し,さらにルーマニア軍はブコヴィナ・バナートをも占領,その大半を領有した。“大ルーマニア”形成の結果,少数民族は全人口の4分の1の450万人にものぼり,同国はその後,近隣諸国からの領土回復要求に悩まされることになる。

 戦後のルーマニアでは,自由党が長期間政権を担当し,工業化政策を実施しようとしたが,農村が疲弊しすぎて資本蓄積がすすまず,1928年に大衆的期待のなかで登場した民族農民党政権も,政治危機を深めただけであった。1930年にカロル2世(在位1930〜40)が即位し,政治家たちを操作する一方で,ファシスト団体(鉄衛団)を自己の道具として育成した。国際舞台にファシズムが進出すると,カロルは「小協商」の立役者であったティトゥレスク外相を1936年に解任し,ファシズム勢力に接近した。内政面でも彼は1938年に政党政治を廃止し,組合国家的な国王独裁体制を築いた。独ソ不可侵条約によりドイツの了解を得たソ連は,1940年6月にベッサラビアとブコヴィナの返還を迫り,ついでハンガリーがトランシルヴァニアを,ブルガリアが南ドブルジアを要求した。孤立したカロルは,トランシルヴァニア割譲を北部5分の3に値切っただけで,あとのすべての要求を受諾し,退陣要求が高まるなかでスイスに亡命した。そのあとアントネスク将軍が軍部独裁政権を担当し,1941年に独ソ戦が開始されるとソ連に宣戦,ベッサラビアを奪回したばかりか,ソ連領深く攻め込んだ。1943年に反攻に出たソ連軍は,1944年3月にプルート川を渡り,固有のルーマニア領へ侵攻した。民族農民党・自由党・共産党・社会民主党が「国民民主ブロック」を結成,国王ミハイ(在位1927〜30,1940〜47)と軍の中枢部と提携した。8月23日,宮廷を訪問したアントネスクは近衛兵に逮捕された。クーデタ派の軍が要所を占拠するとともに,国王は休戦条約の受諾,ファシスト独裁の一掃,対独宣戦布告を放送を通じて発表した。

【現代ルーマニアの歩み】1945年3月にソ連の後押しで耕民戦線グローザが政権に就き,共産党は内相・法相のポストを入手した。同党はそれを利用し,1947年までに民族農民党・自由党の幹部を逮捕し,または亡命に追い込んだ。同年12月30日,ミハイ国王は退位し,人民共和国が宣言された。1948年2月に社会民主党左派を吸収し,労働者党と名乗った共産党は,“人民戦線”の統一候補者名簿で3月の総選挙に臨み,92%を得票,4月に新議会で憲法を成立させた。粛清は党内にも及び,1948年2月に古参党幹部のパトラシュカーヌ法相が批判され,1954年に裁判ののち処刑された。1952年には党内の“モスクワ帰り”のパウケル外相,ルカ蔵相が追放され,1945年来の党書記長で“国内派”のゲオルギゥ=デジが“小スターリン”としての実権を固めた。1951年から急速な工業化を追求する5カ年計画が開始され,“富農一掃”の掛け声とともに農村の集団化が強行された。1953年3月にスターリンが死ぬと,8月にゲオルギゥ=デジは農業,消費財生産の軽視等について自己批判を行ったが,1955年にソ連で重工業優先政策が復活すると,それに合わせて重工業化路線に復帰した。ハンガリー事件後,ルーマニアはソ連軍の自国領からの撤退を粘り強く要請し,1958年にそれを実現させた。EEC の発足に刺激されたソ連は,コメコンの国際分業体制計画を提唱したが,自国が農業国のままに格付けされることを恐れたルーマニアは,それに強く反対した。1960年に開始された中ソ論争においても中立の態度を示したルーマニアは,1964年以降西欧や米国との独自の交流を開始した。1965年にゲオルギゥ=デジが死去し,党第一書記の後任には,47歳のチャウシェスクが就任した。チャウシェスクは党名を共産党に復元,新憲法を施行して国名を社会主義共和国と変更するとともに,前任者以上に鮮明な“自主路線”を展開し,コメコンやワルシャワ条約機構のなかでも独自の主張を行った。対外路線の華やかさに比べて内政面の自由化はすすまず,トランシルヴァニアのハンガリー人の不満や,労働不安が表面化した。チャウシェスクは,1967年に党機関と政府機関の一元化を実施,自ら党書記長と国家元首を兼任したが,そのほか国防・経済・イデオロギー・統一戦線など,あらゆる分野の最高審議機関の議長を兼ね,さらには夫人・息子・親類を高位に就け,縁者中心主義の傾向を強めた。

【言語・文化】ルーマニア語は,印欧語のなかの「ロマンス語」に属し,イタリア語・フランス語・スペイン語等と同様ラテン語から派生した言語であり,東欧では異色の存在である。ただ,非ラテン系言語の影響も大きく,ことに語彙の面では,ラテン系の語は辞書上の単語の半分以下であり,スラヴ系の語より少ない。スラヴ系以外ではトルコ・ハンガリー・アルバニア・ギリシアのことばを起源とする語が多い。もっとも,使われる頻度からすれば,ラテン系の語の比重がずっと高くなる。そのほか,文法や音声の上でもスラヴ系等の言語の影響がみられる。宗教面では,ルーマニア人の圧倒的多数は正教の信者であった。中世には教会の儀式はスラヴ様式であり,2公国建国後も17世紀ごろまでは,教会用語はスラヴ語であった。1561年に最初のルーマニア語の福音書がトランシルヴァニアにおいて印刷され,1688年には最初のルーマニア語聖書が現れた。

 ハンガリー支配下のトラシルヴァニアのルーマニア人正教徒の多くは,カルヴィン派による迫害を避けるために,1698年にローマ教会との統一文書に署名し,正教の儀式を残しながらローマ教皇の管轄下に入るという“東方カトリック”教徒 Uniat となった。2公国では,18世紀初めからのファナリオット支配下で,正教教会は,ギリシア人およびギリシア語の強い影響下に置かれた。ルーマニア公国成立後,教会からギリシア色が急速に放逐され,1872年にルーマニア正教会の独立が宣言された。1948年に“東方カトリック”教会を,ルーマニア正教会に統合するとの決定がなされた。

 ルーマニアの中世は,文化的にはビザンティンとスラヴの影響を強く受け,古代スラヴ語で書かれた宗教文書以外に,文学的にみるべきものはなかった。16世紀ごろからスラヴ宗教文書のルーマニア語による注記や翻訳が現れはじめた。18世紀以降のファナリオット支配はルーマニア語文化の形成を阻害したが,しかしギリシア人による西欧啓蒙思想の流入を促した。18世紀中ごろ,ハンガリー領トランシルヴァニア東方カトリックの若いルーマニア人僧侶たちは,ローマに留学して自己のことばや文化の起源を発見し,ルーマニア本国に民族の“偉大な過去”について熱いメッセージを送った。トランシルヴァニアを中心に,アルファベットをキリル文字からラテン文字に改め,ルーマニア語からスラヴ語やギリシア語の影響を排除する“浄化”運動が進行した。同じころネクルチェは民間伝説を集大成し,ルーマニア固有の文学の先駆けをなした。19世紀中ごろになると,ラドゥレスクが文芸誌を刊行し,文学の隆盛に道を開いた。19世紀後半では,ルーマニア現代詩の創設者とされるエミネスク,農民文学を確立したクレアンガ,新文学運動をおこしたマイオレスクなどが有名である。現代になると西欧から多くの潮流が波及した。叙事詩のピラット・アルゲージ,農民文学のレブリアヌなどが特筆される。第二次世界大戦後の代表的作家にはスタンク・プレダ・バルブなどがいる。美術では,クルテア=デ=アルジェシの聖ニクラス=ドムネスク教会等のビザンティン様式の中世教会やその壁画が有名であり,優れたイコンも多く残されている。民族音楽は,ラテン・スラヴ・ハンガリー・トルコ・ジプシーなど多くの要素が混在し,多彩,豊富である。国外で活躍したルーマニア人芸術家には,劇作家のヨネスコや彫刻家のブランクーシなどがいる。

〔参考文献〕アンドレイ・オツェテア編,鈴木四郎他訳『ルーマニア史』2巻,1977,恒文社

木戸蓊『バルカン現代史』1977,山川出版社

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