●ルネサンス式建築 ルネサンスしきけんちく
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主として15世紀、中世とは異なる形でイタリアに形づくられた新しい建築様式をさす。どの時代・文化でも、代表的建築物にはそこで理想界とみなされている世界像が表象されているとみることができる。古代日本で仏寺が極楽浄土を表象し、西欧中世でとくにゴシック大聖堂が天国の表象となったようにである。これに対しルネサンス建築の特徴は、現世・俗界に重心が移ったこと、少なくとも聖俗並存の状態に変わったことにある。すなわち王侯・市民の宮廷・邸宅や公共的建築物が代表的建築物として登場する。ルネサンス人間主義の登場にみあった転換といえよう。だがこの思想の転換で最も重要なのは個々の建築物もさることながら、“理想都市”の構想が本格的に形づくられたことである。それは理想の世界が天上から地上に置き換えられることを意味したからである。その都市像は、中心広場から放射状にまっすぐのびる道路で諸街区を区分するという構造を基本としている。個々の建物はそういう理想像を暗黙の下図として構想されたといえる。絵画における遠近法が自然をある法則性と秩序のもとにとらえようとする意志の表現であったと同じように、理想都市の構想は自然を人間の法則的統御のもとに置こうとする意志の表現にほかならなかった。両者とも、人間が中心に立ってその“まなざし”で世界を見通そうとする試みとして、相携えて発展する。かつて自然は禁忌の対象であり、神の“まなざし”がそれを統御した。神の時代が終わったとき、自然を人間の生きる世界に連続させて統一的に把握しうる法則の探究は急務となった。かつての神学に代わって登場するのが科学である。初期ルネサンス建築を代表する F.ブルネレスキ(1377〜1446)が、まず彫刻と遠近法の学習からその道に入ったのはいわれのないことではなかった。当時彫刻とはまず人体科学の勉学であり、彫刻の目標は理想の人体像の形成にしだいに定められつつあったからである。そして遠近法とは、人体像を尺度としてそれと調和的な比例関係で秩序化される空間を構成する技術にほかならなかったからである。当時、建築というものにかかわる根本思想もその延長にあった。のちにデューラーが『人体理想論』で展開するように、人間が大の字に開いた手足の先端を結ぶと真円となるという思想がギリシアからあった。ブルネレスキが最初に手がけたフィレンツェ大聖堂サンタ=マリア=デル=フィオーレは、まさにそのような円に近似する8角型伽藍として構想されている。その構想の原型には初期ローマの円型遺構パンテオンがあり、8個の球面3角型を組み合わせた円蓋についてはビザンツ教会堂円蓋からの着想がある。だがルネサンス人としてのブルネレスキの面目は、そのような人体理想図を下敷きとして、北方ゴシックにおける天上志向の垂直性を断ち切る新しい建築様式を創出したことにある。これに対しオスペダーレ=デリ=インチェンティ(捨子養育院)では正面に軽やかに展開する列柱を配して遠近法的な広がりをみれる建築空間を造型した。そのあとを受けてルネサンス建築の極点を築くのが、L.B.アルベルティ(1404〜72)である。彼自身はむしろ芸術・哲学・数学などにわたって広く論述を残したルネサンス的文人であるが、ローマで古代建築を深く探究し、かつて著名な『建築書』を著したヴィトルヴィウスにならって、自ら『建築論』をものした。古代再生を意味するルネサンスにふさわしいアルベルティの特色は、古ローマ建築にならった壁体構造による量塊性であり、次は水平性の重視である。とくに後者は人間の目線の高さを踏まえた明らかに人間主義的な発想にもとづいており、この二つの特性は柱構造による垂直性を志向するゴシックとはっきり絶縁する新しい建築思想の誕生を意味するものであった。第3は新しい市民住居というべきパラッツオ建築に新境地を開いたことである。これは市民階級の台頭を明快に告げる徴候であり、これを画期として建築の重心は聖から俗へと移行していく。アルベルティの建築の特色は、フィレンツェのパラッツオ=ピッティ・サンタ=マリア=ノヴェルラ聖堂などによくうかがわれるが、彼の活動はミケロックォ(1396〜1472)・フィラレーテ(1400〜70)らフィレンツェの建築家に多大の影響を与え、それによって同地はルネサンス建築の中心となっていく。これに対しローマは15世紀の盛期ルネサンスにはさしたる活況をみせなかったが、やや時期がずれて円蓋教会堂に独特な作風をみせたブラマンテ(1444ごろ〜1514)が登場した。また彼の素案を受けてミケランジェロが基本構想を設計したサン=ピエトロ大聖堂は、盛期ルネサンス建築とはやや異なる相をみせる存在となった。
