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●ルネサンス研究発達史 ルネサンスけんきゅうはったつし

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【ことば】ジョルジョ=ヴァザーリがその画人伝(1550)において,チマブエ以来,古代の美と壮大さを復活した絵画が,野蛮なゲルマンのゴシックのあと始まったとし,それの表現として初めて rinascita ということばを使った。このことばがその後フランス語のルネサンスで表され,ヨーロッパに拡がっていった。ことばとしてはヴァザーリが最初に使ったけれども,こうした考え方はヴァザーリが初めではなく,ルネサンス時代には広くいき渡っていたものである。たとえばレオナルド=ブルーニは,〈ペトラルカこそ,失われ死に絶えていた古の文学の優雅さを認め,それを再び明るみに呼びもどした最初の人であった〉とか,デカメロンのなかでボッカチオが,〈ジオットによって絵画が復興した〉とか,フィリッポ=ヴィラーニが,〈詩は名誉もなく尊敬されることもなく堕落していたが,偉大なダンテ=アリギエーリは暗い淵からこれらを光のなかに呼び戻し,自らの手で衰滅していたこの芸術を立ちあがらせた〉。またヒューマニストのパルミエーリは,〈遠い祖先の貴い成果が忘れ去られ,それ以後その成果に達することが不可能になっていた。それがようやく当今になって暗闇から救い出され,天才たちの手で呼び戻されてきた〉,などにみられるのである。ヴァザーリはこういう流れのなかで,絵画の復興にのみ rinascita ということばを使ったのであるが,もっと広く文学にも人間の生き方にも,時代全般の更新にも転用できることばであった。そのあと,たとえばピエール=ベールは,ルネサンスを中世の野蛮に対する啓蒙的な反抗運動ととらえたし,ヴォルテールもほぼ同じ考えで,近代的進展の証しとしてとらえた。ギボンスタンダールヴィンケルマンらはルネサンスということばを使って,中世の蒙昧さからの脱却と,理性的・人間的な新文化の開幕を叙述したのである。

【古典学説】上記のような300年にわたることばの歴史があって,1858年にフランスの史家ミシュレが,その著書『フランス史』の第7巻にルネサンスという副題をつけ,16世紀を概観した。ミシュレにとってはルネサンスということばはイタリアを除いた16世紀の西ヨーロッパの総称としての「世界と人間の発見」の時代を意味するものであった。このミシュレの「世界と人間の発見」の時代という構想を継承して,もっと拡げ,ルネサンスの古典学説をうち立てたのがヤーコプ=ブルクハルトである。ブルクハルトはイタリアのみにその地域を限定し,時代も14世紀から16世紀に限って,その名著『イタリア=ルネサンスの文化』(1860)を書いた。彼によるとイタリアのルネサンス時代は,世界と人間の発見の時代であり,古典文芸の復活の時代であり,作為の時代(作り物としての国家,ゲームとしての戦争)であり,現実主義と個人主義の出現の時代,無道徳と宗教的無関心を基調とする時代であった。それは,中世とは截然と区別される近代の始まりであった。中世には人々はヴェールに覆われ,半ば夢み,半ば目覚めた状能のなかにまどろんでいた。ところがこの時期,イタリアではこのヴェールが取り払われ,明確な意識のもとに,この世のことすべてを客観的な対象として扱うことがきるようになった。その優れたイタリア民族精神が,古典古代といっしょになってルネサンスという新時代をほかのヨーロッパに先がけ,ヨーロッパの長子として生み出したのである。以後ブルクハルトのルネサンス観は,シモンズ(『イタリアにおけるルネサンス』1875)やガイガー(『イタリアとドイツにおけるルネサンスと人文主義』1882)・ブランディ(『フィレンツェとローマにおけるルネサンス』1899)らによって補強されつつ,古典学説として多くの人々の共感をもって迎えられ,定説となって20世紀初頭まで唱えられてきた。

【批判修正】しかし19世紀末から20世紀初頭にかけて,古典学説に対する反論・疑問が提唱されはじめる。歴史の世紀といわれる19世紀の歴史学の進展とロマン主義や民族主義の高揚に刺激され,中世文化の再認識が進んだことが大きな原因であった。新しい中世の姿,すなわち単なる暗黒の時代ではないことが明らかになるにつれて,ブルクハルトのルネサンス観の欠点が浮かび上がってきた。それはあまりにもできあがってしまったルネサンスの静態的な把握に対してであり,14世紀から16世紀のイタリアのことと,時間的・空間的に限定しすぎていることに対してであり,中世文化やほかのヨーロッパ諸国との対照が強すぎることに対してであった。これらの点について批判したのが,根掘り論者と称される学者たちで,古典学説のあげるルネサンス期の特徴のいくつかを14世紀から16世紀のことではなく,中世文化のなかにみつけ出し,ルネサンスとはイタリアだけの現象ではなく,中世ヨーロッパから生まれ出たもの,全ヨーロッパ的なものとみなした。そのはしりが,イギリスのウォルター=ペーター(『ルネサンス』1877)で,中世の恋愛物語のなかに,古典学説のみる現世的な人間の感情を見出し,ヘンリー=トーデ(『アッシジのフランチェスコとイタリアにおけるルネサンス芸術の開始』1885)は,聖フランチェスコに個人の内面から溢れ出る人間と自然への素朴で飾らないやさしい愛情を見出し,これこそルネサンス芸術の源だとした。そのほかノイマン(『ビザンツ文化ルネサンス文化』1903)・ブルダッハ(『宗教改革・ルネサンス・人文主義』1926)らもこの一群の学者である。古典文学の復興に関しては,ハスキンズがその『12世紀のルネサンス』(1927)で,12〜13世紀にすでにイタリアでなくフランスで始まっていたものだ,と論じた。ジルソンブーランジェ,新しいところではルヌッチ(『中世ヨーロッパ・ヒューマニズムの運命』1953)も同じ考え方である。ノルドストレーム(『中世とルネサンス』1933)は古典学説の文芸復興の全面否定を表明し,フランスで達成された以上のものは,イタリアには何もない,と。またワルザー(『ルネサンス世界観の研究』1920)のように,ルネサンス期の人々は古典学説が主張するほど,反宗教的でなく,むしろカトリックや教会に忠実であることが多いことを,イタリアのヒューマニストの研究を通して強調した。ルネサンス美術のゴシック起源を主張する学者も多い。クーラジョやワイゼ(『ルネサンスの二重概念』1934)が代表である。こうした根掘り論者の批判とともに,古典学説のいくつかの特徴を認めながら,修正を迫る考え方も現れてきた。その中心はオランダのホイジンガ(『ルネサンスの問題』1920)である。ルネサンスと中世を截然と区別せず,ルネサンスのなかに中世的なものと近代的なものの並存を認め,古典学説と根掘り論の両者ともルネサンスのなかにあること,両者とも認める道を開いた。多様な姿がルネサンスで,一様に定義できないとする複数主義の見方である。ホイジンガは別として,この考え方はややもするとルネサンスを中世から近代にいたる過渡期とみる見方に進んでいくものである。ルネサンス史学史を初めて体系的に叙述したファーガソン(『ルネサンスの再解釈』1956)など過渡期としてとらえる考え方の代表である。しかし過渡期としてしまうとルネサンスの独自性は中世と近代の両特徴のなかに消えてしまうことになり,結局ルネサンスはなかったことになる。

【現状と展望】これに対して批判修正を十分考慮に入れながら,なお中世とは異なるルネサンス時代があったと考える学説が現状では強いのではなかろうか。たとえばクリステルラー(『ルネサンスの思想』1961)は,12〜13世紀のフランスの古典復興は疑えない事実である。そのフランス中世文化と比べると,ルネサンス期のイタリア文化はそれほど際立ったものではないかもしれない。しかしイタリア中世文化とルネサンス期のイタリア文化を比べると,そこに際立った差があることは疑う余地のないことで,文化的なルネサンスがあった,とみている。ガレン(『イタリアのヒューマニズム』1947)・バロン(『イタリア初期ルネサンスの危機』1955)・シャボ(『ルネサンスの概念』1957)らも若干ニュアンスの差はあるが,根掘り論者の説く中世文化の諸価値を十分認識した上で,中世文化とルネサンス文化のあいだに内面的な価値転換の存在を主張し,ルネサンスがあったと主張している。パノフスキー(『西洋絵画におけるルネサンスとルネシンシーズ』1960)も,古代世界に関する中世の描き手の描写とルネサンス期の画家の描写には明らかに質的な差があると主張する。ヘイ(『歴史的背景からみたイタリア・ルネサンス』1961)は,〈1350年ごろから1700年ごろに及ぶ時期,一つのルネサンスが存在したということを事実として受け入れる〉と書き,古典学説を150年も延長しているが,ルネサンスの存在を主張している。ギルモア(『ヒューマニストと法律家』1963)も〈ルネサンスという用語は一般に制度的歴史よりも知性の歴史により正確にあてはまることで,この時期の大きな変化は,芸術や精神の領域にある〉と述べている。こうしてルネサンスがあったという点では間違いないとするところまで来ている。ただ,それは「いつからいつまでか」,その“本質”はということになると,現在までのところまだ整理がついていないのが現状で,広い分野の原典に戻って総合的な時代把握をめざすのが,今後の課題であろう。