50音順    検 索

●ローズヴェルト,F.

北アメリカ アメリカ合衆国 AD1882 

 1882〜1945 アメリカ合衆国第32代大統領(在任1933〜45)。ニューヨーク州ハイド=パークでオランダ系の旧家に生まれる。1904年ハーバード=カレッジを卒業し,1905年従妹のアナ=エリノア=ルーズヴェルトと結婚。コロンビア大学ロー=スクールで法律を学んだのち,ニューヨーク州の弁護士資格を得た(1907)。見習弁護士としてニューヨーク市の法律事務所で働いていたが,政界に入る野心をもっており,1910年ニューヨーク州議会上院議員に民主党から立候補し,当選。1912年再選されるが,ウッドロー=ウィルソン政権の誕生とともに,ジュゼイファス=ダニエルズ海軍長官のもとで海軍次官に就任。第一次世界大戦勃発にさいし,アメリカの参戦を早くから主張し海軍拡張のために働いた。1920年の大統領選挙において民主党の副大統領侯補に指名されたが,共和党に大差で敗れた。再び法律関係の仕事に戻ったが,1921年8月小児マヒにかかり,両脚の機能をほとんど失った。ジョージア州ウォームスプリングスに私費を投じて,身体障害者のための保養施設をつくった。1924年と1928年の民主党全国大会でアルフレッド=E=スミスの大統領指名を行った。スミスのあとを継いでニューヨーク州知事選挙に出馬し(1928),当選した。2年後に再選。1932年の大統領選挙では,おおかたの予想どおり民主党の大統領候補に指名された。共和党のハーヴァート=フーヴァー政権は,1929年以来の不況からの脱出の道を見出せずにいたので選挙は民主党に有利になり,ルーズヴェルトは容易に勝利した。不況の克服と景気の回復のためにルーズヴェルトと民主党のとった一連の政策は,“ニュー=ディール”と呼ばれた。失業者・農民に対する救済がなされ,閉鎖されていた銀行は再開への援助を受け,しだいに危機はのり越えられた。ニュー=ディール政策は一貫した経済理論にもとづいておらず,試行錯誤的になされたと批判される。しかしルーズヴェルトの第1期就任演説のことば,〈われわれが恐れなければならないのは,ただ恐れそのものである〉に象徴されるように,彼は国民に対して温かい思いやりをもった人間であった。苦しかった闘病の体験が彼の政治哲学をつくることに大きく貢献したと考えられる。国民はこのような大統領から励ましと希望を与えられたと感じた。1936年の選挙で,彼は空前の大差で再選されたが,政権の第2期において,ニュー=ディールはゆきづまりをみせた。連邦最高裁判所が,ニュー=ディール政策のいくつか−−たとえば全国産業復興法(NIRA)−−を違憲と判断したのであった。ルーズヴェルトは裁判所を批判し,最大限判事の数を15人に増員できるなどの内容をもり込んだ連邦司法部改革案を提出した(1937)が,議会はこれを否決した。しかし“保守派”の判事があいついで辞職したため,ルーズヴェルトは“進歩派”の判事を任命し,以後大統領と議会の対立はなくなった。1940年に彼は慣例を破って出馬し,3選をめざした。ヨーロッパでナチスの脅威に対して戦うイギリス・フランスなどを支援するという意図があったからである。しかし国民の参戦回避=中立維持の気持ちは強く,彼の訴えは冷やかに受けとめられた。選挙演説において,彼はアメリカの若者を海外へ送らないことを約束せざるをえなかった。ルーズヴェルトは3選を果たしたが,就任後まもなく日本軍による真珠湾攻撃がおこり(1941年12月),参戦への気運は高まった。彼は連合国への武器貸与を通じて,アメリカを「民主主義の兵器廠」とするべくつとめた。さらに彼はカサブランカ・ケベック・カイロ・テヘランに行き,ほかの連合国の首脳と会談し,戦争遂行および戦後構想についての意見を交換した。1944年彼は4選され,翌年2月ヤルタでの連合国首脳会談に出席したが,帰国後の4月12日脳溢血におそわれ死去した。ヤルタで彼はほかの連合国首脳に,“国際連合”に関する彼の構想を受け入れさせた。このようにして彼はアメリカを経済的崩壊から救ったのと同じく,戦後世界における平和樹立のために大きな足跡を残した。

〔参考文献〕中屋健一『ルーズヴェルト』1960,誠文堂新光社

ウィリアム=ルクテンバーグ,陸井三郎訳『ルーズヴェルト』1968,紀伊国屋書店

新川健三郎『ルーズヴェルト−ニューディールと第二次世界大戦−』1971,清水書院

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