50音順    検 索

●ルクセンブルク

ヨーロッパ ルクセンブルク大公国 AD 

 正式国名はルクセンブルク大公国,国名はルッツェルブルク(小さな城の意)に由来する。西ヨーロッパの中央部に位置する内陸の小国で面積は2,600平方kmと狭く神奈川県ぐらいの広さ。人口は40万人(1996)。ドイツ系の住民が多いが,外国人が20%を超える(イタリア人が多い)。政体は大公を元首とする立憲君主制。公用語はフランス語だが,ドイツ語とゲルマン系のルクセンブルク(ルッツェルブルク)語が広く用いられている。住民のほとんどはカトリック。北大西洋条約機構(NATO)加盟国。国土は北部の3分の1が高地(アルデンヌ高地)で,南部は平原で農業に適する,ヨーロッパ大陸型の気候。また南西部のエッシュ周辺には豊かな鉄鉱脈があり,ヨーロッパ有数の鉄鋼生産国。1974年の国民総生産のうち鉄鋼生産は約4分の1,また輸出の3分の2を占めた。鉄鋼業が不振の今日では各国の銀行が進出して国際金融市場の一つとして登場する。なお経済はベルギー・オランダと経済同盟を結び一体化している。国民の生活水準は高い。

【16世紀まで】ローマの支配に服したあと,3世紀に現在のルクセンブルク市の位置に小さな城塞がつくられた。その後フランク族の支配下に入り,キリスト教が定着した。10世紀半ごろ,オットー大帝の同盟者のジークフリートがこの地を本拠として支配を始め,11世紀後半にルクセンブルク伯領が形成され,13世紀末に領土をひろげ,1354年に公国となった。この14世紀にルクセンブルク家は神聖ローマ皇帝やハンガリー王を出して強力な勢力を誇った。とりわけカール4世(在位1346〜78)は皇帝としてドイツ史上名高い金印勅書を発布した(1356)だけでなく,家領の拡大につとめ同家最大の版図を実現した。しかしその後同家の勢力は衰え,15世紀前半のジギスムントを最後に皇帝位をハプスブルク家に渡すこととなる。ところで1444年にルクセンブルク公領はブルゴーニュ公のフィリッブ善良公の手に渡り,以後4世紀のあいだ外国の支配を受けることになった。こうしてルクセンブルクは北部の諸領邦とともにネーデルラントを構成し,16世紀前半のカール5世のもとではいわゆるネーデルラント17州の一つを構成し,オランダの反乱にあたってはスペインの側にとどまった。

【17〜18世紀】ルクセンブルクはスペインの支配下においても,17世紀の三十年戦争やルイ14世による占領などの侵略を受けた。スペイン継承戦争のラスタット=バージン条約(1714)によってルクセンブルクはオーストリアの領有するところとなった。その後オーストリアがフランス革命に対抗したため,1795年にフランス軍の侵入を受け,1804年にはナポレオンがルクセンブルクに入城した。このときネーデルラントから切り離されてフランス領となった。そしてナポレオン没落後のウィーン会議がルクセンブルクの独立を促す転機となり,1815年ルクセンブルク大公国が成立した。

【真の独立への道】しかしウィーン会議によるルクセンブルクの独立は列強の思惑による所産であって,なお“半独立”の状態にとどめられた。それは,[1]オランダ王ウィレム1世同君連合による統治(彼がルクセンブルク大公を兼ねた)であったこと,また,[2]ドイツ連邦の一員となり守備はプロイセンが行う,といった点に表れている。その後ベルギーのオランダからの独立(1830)に際してベルギーに属した。しかしルクセンブルク市は依然としてオランダ王が統治権をもつという変則的な状態がつづいた。そして1839年の列強によるロンドン会議ワロン人の住む西半分のベルギーへの割譲を決定し(現在のベルギー領ルクセンブルク州を構成),今日にいたるルクセンブルクの領土ができあがった。

 こうして領土は大幅に削減され,ウィレム1世の統治のまずさに対して住民の不満は高まったが,オランダ王ウィレム2世(在位1840〜49)の統治が成功をおさめたため一時平安な時代を送ることができた。1848年の二月革命のさいルクセンブルク各地で暴動がおこり,ウィレム2世は民主的なベルギー憲法にならった憲法を認め,選挙後に新たに制度化された責任内閣制のウィルマル内閣が成立した。しかし強国プロイセンとフランスは1867年にルクセンブルクをめぐって再び鋭く対立した。この年ロンドン会議が開催されて,ルクセンブルクについて,[1]プロイセン軍の撤兵,[2]独立,そして[3]永世中立化の3点が決定された。ルクセンブルクは独立国家となったのである。翌年新たに憲法が制定されて立憲君主制国家となった。そしてこのころ南西部に豊かな鉄鉱床が発見され,1879年に開発されたトーマス製鋼法の実用化によって鉱石中のリンの除去が可能となり,ルクセンブルクの鉄鋼業は大きな発展期を迎えた。ドイツ経済の発展にも促されて,1890年代にはその生産量は400万tに達し,ヨーロッパ有数の鉄鋼業国となった。また1890年に大公を兼ねていたオランダ王ウィレム3世が死に,オランダとの同君連合が解消されて,大公位は現大公家のナッサウ=ヴァイブルク家アドルフ(在位1890〜1905)が継ぎ,ルクセンブルクの完全な独立が実現した。

【20世紀のルクセンブルク】19世紀末の鉄鋼業の発展によって一躍貧しい農業国から豊かな工業国へと脱皮を遂げたルクセンブルクは,ウィレム4世の没後長女のマリー=アデレード(在位1912〜19)が大公女となった。しかし第一次世界大戦でドイツの占領を受けたあと,共和制を望む左翼の暴動があって,1919年アデレードに代わって妹シャルロットが即位した。同年憲法が民主的なものに改正された。1920年ルクセンブルクはベルギーと経済同盟を結んで,それまでのドイツへの依存に代わってベルギーと密接な関係をもつようになった。そして1940年5月ルクセンブルクはオランダ・ベルギーとともに再びドイツに占領された。ドイツ占領下では苛酷な政策がとられ,強制収容所へ送られた住民も1万6,000名を数えた。1944年にルクセンブルクはひとまず連合軍によって解放されたが全土の解放は1945年1月であった。この間ルクセンブルクはドイツ・連合両軍のあいだの激しい戦場となった。

【現代のルクセンブルク】亡命していたシャルロット大公女は1945年にカナダから帰国し,戦後の再建が着手された。ルクセンブルクはすでに1944年にオランダ・ベルギーとのあいだにベネルクス関税同盟を結んでいた(1948年に発効,そして1958年にベネルクス経済同盟に発展)が,1948年マーシャル=プランによってアメリカの援助が本格化し,経済は回復していった。1948年に1867年以来とっていた中立政策を放棄し,1949年北大西洋条約機構(NATO)に加盟し,1957年のヨーロッパ経済共同体(EEC。1967年以降ヨーロッパ共同体 EC)にもすすんで参加し,統合化しつつある西ヨーロッパの一員としての道を歩んでいる。1981年には前首相であったトルンが EC 委員長になった(84年末まで)。

 なお第二次世界大戦後の政治は比較的安定し,1964年にジャン大公が即位した。今日ルクセンブルクには,欧州議会事務局・欧州司法裁判所ヨーロッパ投資銀行などの諸機関が置かれている。列強の狭間に位置し,戦略上の要衝であったことからルクセンブルクは幾多の外国支配を受けてきた。今日では統合ヨーロッパの中枢的役割をも担いつつ,同時に豊かで美しい観光地をもつ国家として独自の地歩を築いている。モーゼルワインの産地としても有名である。

〔参考文献〕今来陸郎編『中欧史(新版)』1971,山川出版社

栗原福也『ベネルクス現代史』1982,山川出版社

01