●ルイ16世 ルイじゅうろくせい
ヨーロッパ フランス共和国 AD1754 フランス王国
1754〜1793 フランス,ブルボン家の国王(在位1774〜92)。ルイ15世の孫にあたり,二人の兄は早逝したので1765年の父の死で王位継承者に決った。1770年オーストリア女帝の娘マリー=アントワネットと結婚。知性も教養もあり,改革意欲にもえていたが,決断力を欠き,夫としてははじめ,王妃を倦ませた。即位するやモープーが追放した各地の高等法院法官を復職させた。このため,その後の改革の企てにブレーキがかかることになる。テュルゴー・マルゼルヴ・ヴェルジェンヌをそれぞれ財務総監・国璽尚書・外務大臣の地位につけサン=ジェルマン陸軍大臣とともに大胆な改革を断行させようとしたが,特権身分・高等法院の抵抗に遭い,テュルゴーのあとをついだネッケル・カロンヌ・ブリエンヌも挫折した。さらに高等法院の分割・弱体化を策したラモワニヨン改革も撤回をよぎなくされ,各層からの全国三部会召集の要求におれた。このころ,改革にかける国王の意欲はうすれ,狩りと錠前いじりにはけ口をみいだしたといわれる。5月5日,ヴェルサイユに全国三部会を召集した国王は三身分の協力を求めたが,事態は第三身分を軸として国民議会の成立・財政問題に優先する憲法の審議へと,当初の意図を超えて進んだため,王は王妃やアルトワ伯など宮廷保守派の圧力におされネッケルを罷免,軍隊を集結させ国民議会を威圧した。その結果,バスティーユ占拠がおきて,農村騒擾も加わって事態はますます悪化した。この民衆運動を背景に封建的特権の廃止・人権宣言の発布がおこなわれたが,国王はその裁可をしぶったことから10月5日,ヴェルサイユ行進がおこり,王一家はパリのテュルリー宮に移された。国王は不満ながら1790年2月4日憲法護持の誓約をおこない,7月14日には連盟祭がもよおされて立憲君主政下に国民的和解が成立したかにみえた。しかるに1791年4月,国王と議会のあいだを調停していたミラボーが死ぬと王は憲制上の地位に不安を感じ,王妃のすすめもあって6月20日国外脱出をはかった。この企ては失敗し,王は国民を捨てたとの印象を与え,世論の硬化を招いた。1792年4月20日,立法議会のジロンド派におされて国王はオーストリアに宣戦し,王妃は外国軍の手で革命が途絶するのを望んだ。緒戦の敗北はかえって国内の愛国的感情を高め,連盟兵のパリ宿営や近衛兵の解散に拒否権を行使した国王の立場は,フィヤン派内閣の再興によっても改善されず,6月20日の王宮前示威運動がおこり,さらにこれに対するブリュンシュヴィク公の警告はパリ民衆の神経を逆なでした。かくして八月十日の革命がおこり,国王一家は県総代レデラーに引率されて議会に難をのがれ,そののちタンプルに幽閉された。12月4日から国民公会で国王裁判が始まり,マルゼルブが弁護に立ったが敵国と通謀していた秘密書類が発見されて,1793年1月15日には有罪宣告が下った。量刑をめぐり,ジロンド派は無期,または死刑でも執行猶予を,山岳派は即時死刑を主張し,従兄弟のオルレアン公までが後者に加担し,18日の票決は387対334で死刑が決定。21日にコンコルド広場の断頭台に立った。王の処刑はヨーロッパ列強はもとよりイギリス政府をも驚愕させ,第1次対仏大同盟の締結を促した。
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