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●ルイ14世 ルイじゅうよんせい

ヨーロッパ フランス共和国 AD1638 フランス王国

1638〜1715(在位1643〜1715)フランスのブルボン朝絶対王政を代表する国王で、太陽王(le Roi Soleil)とも呼ばれる。パリ郊外のサン=ジェルマン離宮でルイ13世と王妃アンヌ=ドートリッシュとのあいだに生まれた。王妃はスペインのハプスブルク家の出身で、スペイン国王フェリペ4世の姉にあたる。ただし、二人が不仲であったことや結婚後23年目の王子誕生であったことなどから、父親について異説を唱える歴史家もいるが、ともかく当時の人々は〈神の与え給うた御子〉としてルイの誕生を祝福した。

【宰相マザランの時代】1643年ルイ13世の死去に伴いルイ14世が即位したが年齢がわずか5歳であったため、母后が摂政となり、前年リシュリューのあとを継いだ宰相のマザランに実権を委ねた。ルイは母后からスペイン宮廷特有の儀礼主義と宗教的行事を、イタリア人マザランからは大貴族に信を置かず自ら統治すべきこと、またけっして本心を外に出さぬ秘密主義を学んだといわれる。宰相マザランの時代(1642〜61)の最大の事件はフロンドの乱(1648〜53)である。リシュリュー以来の王権強化政策と、三十年戦争のためのマザランの増税策に対し、パリの高等法院が反発、各地の貴族もこれに呼応して全国的な騒乱状態となった。ルイも母后やマザランとともに幾度かパリを離れなければならなくなり、このときの苦い経験が彼の反パリ感情を形成し、のちのヴェルサイユ遷都へとつながったといわれる。ともかく、マザランは貴族の内部分裂を利用して反乱を鎮圧し、国王反対勢力を一掃するのである。そして1659年のピレネー条約ではスペインから領土を獲得、またスペイン王女マリー=テレーズとルイ14世の結婚を成立させ、フランスはヨーロッパの強国として君臨することになる。1661年3月マザランが死ぬと、22歳に達したルイ14世は、宰相を置かず自ら親政をとることを宣言。こうしてフランスは、〈朕は国家なり〉ということばで象徴される絶対王政時代に入るのである。

【ルイ14世の内政】ルイは親政と同時に自ら顧問官会議を主宰し、行政・立法・統帥の3権を一手に掌握するとともに、知事と称する王直属の官吏を全国に配置して、集権化をはかった。顧問官を初め人材の登用はつとめて中産階級から行った。財務総監となったコルベールはとくに名高く、産業の保護統制・輸出の増大・植民地の開拓などを通じて国内に貴金属を蓄積しようとするその政策はコルベール主義の名で知られる。またル=テリエ・ルーヴォア父子は相ついで王の軍政を担当し、20万と称せられるヨーロッパ最強の陸軍を創設した。しかしルイ14世の栄光を象徴する最大のものは、やはりヴェルサイユ宮殿の造営とそこへの遷都(1682)であろう。この時期のフランスは海上国のオランダを征圧して、ヨーロッパ国際政局の主導権を握りつつあり、その勢威を国内から国外にまで及ぼすのに絶好の舞台となった。実際に華やかな宮廷社交界が展開され、ヨーロッパ諸国は競ってその建築と宮廷生活の模倣につとめたのである。また宗教面では、王妃の死後ひそかに結婚したマントノン夫人が敬虔なカトリック信者であったこともあり、しだいに厳しさを増した。プロテスタントやジャンセニスト(イエズス会と対抗した旧教神学派)を異端として弾圧し、改宗を迫ったが、とくに1685年に“ナントの勅令”を廃止したことは、数十万人に及ぶ商工業者の国外移住を招き、フランス経済に大きな打撃を与えることとなった。

【ルイ14世の大陸政策】フランスの伝統的外交政策はハプスブルク家の打倒であり、ルイ14世がそれを踏襲したことはいうまでもない。三十年戦争の結果としてのウェストファリア条約と、前述のピレネー条約により、幾分その目的は達成されたが、四囲をスペイン・オーストリアのハプスブルク勢力に包囲されている状況に変化はなかった。そこでルイ14世は充実した兵力と財力を背景に領土拡大をめざしたが、侵略の口実として掲げたのが“自然国境説”である。それによると、フランスの領土はピレネー山脈・アルプス山脈・ライン川・大西洋までとなり、要するにライン左岸地方の領有が正当化されることになる。実際、ルイ14世親政時代の4度の侵略戦争はこの線に沿ってなされた。(1)ネーデルラント戦争(帰属戦争、1667〜68)、(2)オランダ戦争(1672〜78)、(3)ファルツ戦争アウグスブルク同盟戦争、1688〜97)、(4)スペイン継承戦争(1701〜13)がそれであり、(1)から(3)の戦争では結局オランダを中心とするヨーロッパ諸国の連合の前に、十分目的を達せられず、若干の領土を得たにとどまった。(4)の戦争は、カルロス2世死後のスペイン王位継承をめぐるフランスとドイツ皇帝の対立に端を発したが、フランスとスペインの合併を恐れたイギリスがオランダとともに皇帝側についたため長期化し、フランスの国力を疲弊させることになった。1713年のユトレヒト条約で、ルイ14世は孫のフィリップをスペイン王(フェリペ5世)とすることに成功して威信を保ったが、ハドソン湾岸など多くの海外領土をイギリスに奪われ、植民地戦争で大きく後退することになるのである。ブルボン朝の将来に暗い影がさしかかった1715年9月、ルイ14世は77年の生涯を静かに終えた。

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