●ルイ18世 ルイじゅうはっせい
ヨーロッパ フランス共和国 AD1758 フランス王国
1758〜1824 フランスの国王(在位1814〜24)。即位前はプロヴァンス伯を称し,ルイ16世の弟。アルトワ伯(のちのシャルル10世)の兄にあたる。革命直前の第1次名士会では第1部会の議長をつとめ,カロンヌを批判。第2次名士会でも第三身分議員の倍増を僅差で決めた。3兄弟のなかでは穏健な思想をもち,大革命開始後は宮廷保守派から優柔不断と非難された。ヴェルサイユ行進のときは姿をくらまし,その後王国総代官に任命されようとしたがマリー=アントワネットに反対された。1791年6月20日ゴヴァレンヌ逃亡のルイ16世とは別ルートでベルギーに逃れ,コブレンツでアルトワ伯と合流して亡命貴族を糾合,王権回復の機をうかがった。1793年兄の処刑後摂政を,また皇太子の死が確認された1795年には国王を名のり,共和政府に対抗した。ヴァンデの反徒やピシュグリユ将軍などと接触したが戦争の圧力で居留地をヴェロナ(1794)・ブランケンブルグ(1796〜97)・ミタワ(1798)と変え,1801〜04年はプロイセン王によりワルシャワに迎えられた。1800年9月ナポレオンを自分の代官として扱おうとし,〈わけまえを申し出られよ〉とすすめたが,ナポレオンからは〈フランス帰国を望まれるな。それには50万の屍を越えなければなりませんぞ〉との返事があっただけであった。アンギャン公の処刑・ナポレオンの皇帝即位で,大陸列強君主はナポレオンとの交渉を重視するようになり苦境に立った。1807年からはイギリスを頼り,1809年から1814年までバッキンガム伯領のハートウェルにおちついた。ナポレオンの没落後,タレイランとの交渉が奏功し,1814年4月,元老院から帰国要請をうけ(第1次復古王朝),5月初めのサン=トゥーアンの宣言にのっとって憲章(シャルト)を制定,国王権力は強いながら革命の成果としての代議制を保障した。1815年8月百日天下により再度の亡命を余儀なくされたが,ワーテルローの戦いののち復位(第2次王政復古)。国民に革命の成果を守ることを約束したが,白色テロルを止めることはできず,かれ自身が“王よりも王党的”と評した過激王党派の攻勢にあい,“またとない議会”が成立。この議会を解散し,一時自由主義路線をとったが,1820年のベリー公暗殺事件の衝撃でまたしてもヴィレールなど過激王党の抬頭をゆるした。子のないまま没し,同派の首領アルトワ伯の即位を導いた。
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