●倫理学 りんりがく
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倫理の“倫”とは,仲間・ともがら・人倫・人間社会を意味する。“理”とは,物事の“筋道”“ことわり”“秩序”“理法”“法則”などを意味している。したがって,倫理とは人倫の理法であり,倫理学は人倫の理法の学である。人間は人と人との間柄における存在であり,倫理は人間存在の理法である。たとえば古代中国においては,父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の五倫のあいだには,親・義・別・序・信の理法が存在した。しかしこのような理法の根底には,個人個人が自己の良心に従って行動するという自律の原則が存在しなければならない。つまり,倫理の基盤は個人の内面にあるのである。したがって,倫理は個人的側面と社会的側面の両面を具えている。倫理学は,人倫の理法・人間存在の理法を合理的に探求する学である。カントは,その著『純粋理性批判』のなかで,人間の理性に課せられた根本的課題として〈わたしはなにを知ることができるか〉〈わたしはなにをなすべきか〉〈わたしはなにを望むことができるか〉の三つをあげ,そのなかの〈わたしはなにをなすべきか〉に答えることを倫理学の根本課題としているが,倫理学は人間の行為規範・善悪・価値等について研究する学問である。
日本語の倫理学という用語は,明治初年には一時,道徳学・道義学・人倫学などの訳語も用いられたが,一説によれば,井上哲次郎によって学名として定着したとされる。本来人間や動物の住み慣れた場所や住居を意味するものであるが,同時にその場所がもっている風俗・慣習,さらには,その慣習を体得した個人の性格を意味していた。また,倫理と同じく人倫の理法を意味する道徳という語は,語源的にみても倫理と同様の意味をもっている。すなわち,西欧語の道徳という語の語源にあたるラテン語のモーレスは,風俗・習慣を意味しており,“徳”という語は,東洋でも西洋でも人間の人間としての優秀性を意味している。倫理と道徳の意味をあえて区別すれば,倫理は理論的,道徳は実践的意味合いが強いということである。社会生活の理法としての倫理は,人類社会とともに古く,倫理なしには人間社会は成り立たない。人類社会が未発達な段階においては,習俗・慣習・掟として存在し,そこでは,法と宗教と道徳が一体となっていた。今日においては,これらは分化しそれぞれ独立したが,たがいに重複している部分も多い。また,個人の行為という点からみても人間生活に倫理は不可欠である。すなわちわれわれの日常生活は,価値判断の連続であり,その判断の基準となっている倫理規範なしには行為は成り立たないといえる。換言すれば,人間生活は,真偽や美醜の区別とともに必ずなんらかの善悪の区別なしには成立しないのである。その際,われわれが基準としている倫理規範は,因襲的な倫理規範であり,常識的なものであって,厳密な学的反省に立ったものではない。学としての倫理学は,このような因襲的・断片的な知識を吟味し体系づけたものである。
【倫理学の方法】研究方法という点からみれば,学問は大きく事実学と規範学に分かれる。前者は事実について記述することを目的とし,後者は,当為ないし規範について探求することを目的とする。一般には,倫理学は規範学に属するものと考えられており,道徳哲学と同じ意味のものとされている。規範学としての倫理学の方法は,哲学的・形而上学的方法であって,実在の判断・事実の陳述・事実間の関係を記述する事実学の方法とは異なって,“有るべきもの”つまり理想・当為・義務を思弁によって決定し,それらを実現する方法を探求するのである。ソクラテス以後の西欧倫理学および明治以後の日本の倫理学の伝統は,基本的にはこの立場によって研究がすすめられてきたといえる。しかし,倫理学を規範学と考えていながら,道徳規範や法則を事実の研究から導き出そうとする立場も存在する。たとえば,ダーウィン・スペンサー・ヴントなどであり,彼らは生物学や心理学の研究成果から道徳法則を見出そうとしたのである。このような研究方法に対しては,事実(Sein)の研究から当為(Sollen)を導き出そうとする誤りを犯しているという批判がある。しかしもう一方では,現象学などによって Sein と Sollen は分かち難く結びついているという指摘もある。また,倫理学を規範学としてではなく,事実学として考える立場もある。代表的なのは,デュルケム・レヴィ=ブリュール・ベイエなどフランスの実証主義の立場で,これらの人々は「社会的事実として考えられた道徳的事実の実証的研究」,すなわち「習俗の科学」の研究を行っている。さらに,現代英米倫理学の主流を占めている分析哲学による方法は,上記の事実学および規範学による方法とは異なる方法をとっている。すなわち,分析哲学の一部をなすメタ倫理学は,善悪・当為・義務など倫理学上,または日常の道徳的判断上用いられる言語の意味と性質を明らかにすることによって,倫理学上の諸問題の解決をはかろうとするものである。メタ倫理学には,自然主義・直覚主義・情緒主義などがある。
【倫理学の課題】倫理学の課題として取り上げられる内容の主要なものについて,以下,行為論・良心論・道徳的標準論に分けて略述する。行為論は,道徳的行為の意味,その成立条件,善い行為および悪い行為とは何かなどについて考察する。道徳的行為が成立するためには,意志の自由が前提されなければならない。この自由が存在しないところに道徳的行為は成立しない。しかし,この自由の存否の証明は,古来倫理学上の難問である。次に道徳的行為を成立させるためには,(1)価値について感得していること,(2)ある価値を意志すること,(3)その価値を具現することが必要とされる。また,このような行為を行うことができるものを人格と呼んでいる。道徳的行為の善悪については,動機・目的の善し悪しを重視する動機論と,行為の結果によって判断する結果論に分かれる。道徳的善悪すなわち価値には,正価値・反価値の区別,高い価値・低い価値の序列がある。価値の序列についてはシェーラーは一般論として,有用価値,快適価値,生命価値,精神的・文化的価値,宗教的価値の序列をつけている。道徳的行為を累積することによって形成される卓越した道徳的能力は品性と呼ばれる。また,具体的な実践内容として徳目が論じられる。次に良心論においては,良心の意味・起源・自律などについて考察される。良心とは,自己自身の行為の正邪・善悪を判別する心の作用である。良心作用の成り立ち・起源については,生まれつきもっているとする先天説(バトラー・シャフツベリなど)と,生まれてからの教育や社会環境の影響を受けて経験的に形成されるものであるとする経験説(ホッブス・ベンサムなど)に分かれる。自己の良心に従って判断し,行動することが道徳行為の根本であるが,これは自律と呼ばれ,意志の自律はカントを始め多くの学者が重視している。道徳的標準論は,ある行為を善とし,ある行為を悪とするためには,なんらかの目的ないし標準が必要であるが,この目的ないし標準について考察する。この善悪の標準の立て方には,法則によるという立場と目的,または理想によるという立場がある。前者には,(1)他律的法則説,(2)直覚説,(3)カントの形式説(後述)がある。後者には,(4)快楽説,(5)合理主義,(6)自我実現説,(7)人格説などがある。(1)他律的法則説は,自己の良心以外の命令によって善悪の標準が課せられるとするもので,(a)神意によるもの,(b)風俗慣習によるもの,(c)法律によるものなどの説に分かれる。(2)直覚説は,善悪の判断は良心の内的指示にもとづくというもので,誰にでも自明なものとして自覚されるという立場をとる。次に(4)快楽説は,人生の目的は快楽にあるとするものであるが,これには個人的快楽説と公衆的快楽説に分かれる。前者にはエピクロス・ホッブス・ロック・ヒュームなどをあげることができる。後者は,社会本位の見地から快楽説を唱えるもので,後述の功利主義の立場がこれに属している。(5)合理主義は,理性的行動をすることが人生の目的であると説くもので,プラトン・アリストテレス以後,ドイツ観念論にいたるまで多くの学者がとっている立場である。(6)自我実現説は,グリーンが提示した説で,自我とは絶対我(絶対意識)であり,この絶対我への接近が人格の形成であり,その実現が,自己および社会の善とされる。(7)人格説は,行為の究極目的を人格の完成に置くもので,人格概念の相違によって歴史上さまざまな人格説がある。現代では,フランスのムーニェは,実存主義の立場から人格主義を唱えている。
【倫理学の歴史】東洋,とくに日本の倫理学の伝統は,儒教・仏教・神道などの実践に関する文献が中心で,実践学的観点からすれば貴重なものも多いが,ここでは,西欧の倫理学史について略述しよう。倫理学の祖はソクラテスとされる。ソクラテスは,デルフォイの神託〈汝自身を知れ〉に従って,魂の探求こそ人間にとって最も重要なことと考えた。また〈徳は知である〉とし,徳は人間を幸福にするものであるとした。プラトンは,道徳を基礎とした理性的国家を理想国家と考え,為政者・軍人・農工商の一般階級がそれぞれ知恵・勇気・節制の徳を調和よく発揮すれば,国家全体として正義の徳が実現されると考えた。このことは個人の精神についても同様であり,精神の正義の実現を理想とした。アリストテレスは中庸と正義の徳を強調した。中庸は過度と不足の中間であり,正義はポリスにおける共同生活を実現し,幸福をもたらすものであるとした。ポリス没落後現れたストア学派は自然法を尊重し,〈自然に一致して生きる〉ことをめざした。つまり,快苦によって心の平静を乱されない状態,アパティア(不動の心)を理想とした。またエピクロス学派は,快楽こそ善であるという快楽説を主張したが,真の快楽は精神的喜びにあるとして,魂の平静(アタラキシア)を求めた。中世に入り,キリスト教が世界宗教となるにつれて,倫理学は神学に従属させられた。キリスト教は神への愛と隣人愛を中核としている。その倫理は,現世否定的・禁欲主義的性格が強い。中世最大の神学者トマス=アクイナスは,アリストテレスの倫理学を踏襲し,それをキリスト教倫理と統合した。ルネサンスは,中世のさまざまな束縛から解放された人間が,古代ギリシアの文化的精神を模範として人間らしい自由な生き方を求めた文化的な運動である。たとえば,ピコは,人間を字宙の中心に置き,その自由意思によって自己を無限に形成していくという考えを示している。宗教改革を行ったルターおよびカルヴィンは,旧来のキリスト教会の堕落を批判し〈神は人によって義とされる〉とした。また彼らは現実肯定的であり,労働に励むことによって,神の意思に沿うことができると考えた。これは,産業革命とそれ以後の近代資本主義の倫理に影響を与えた。イギリス経験論の祖であるベーコンは,人間の自然認識を誤らせる偏見を四つのイドラ(偶像)で表し,それらを排除するために実験と観察の必要を説いた。ロックは経験論を発展させ,人間における先天的観念の所有を否定するとともに,人間が法律や道徳に従うのは,そうしたほうが快であり幸福であるからだとした。また,シャフツベリやハチソンは,道徳感覚に道徳の基盤を見出そうとした。近代最大の哲学者であるカントの倫理学は,法則倫理学・形式主義などと呼ばれる。カントは,道徳についても理性による普遍的法則が成り立つとして〈汝の意思の格率がつねに同時に普遍的立法の原則として通用しうるように行為せよ〉という命題を無条件的に成立する法則として「定言命法」と呼んだ。カントは,意思がこの道徳法則に一致することによって道徳性が成り立つとした。また,同時に義務であるところの目的は,自己の完全性と他人の幸福であるとした。自己の完全性とは,自己の能力と道徳的意思を開発することである。ヘーゲルは,カントの道徳論を主観的立場であると批判し,家族・市民社会・国家の3段階において具体化される客観的人倫の考え方を示した。とくに,法によって個人の利益と全体の利益が自覚的に調和され,自由が保証された国家を人倫の最高形態とした。ベンサム・ミルなどの功利主義者は,快楽を善,苦痛を悪とし“最大多数の最大幸福”の実現を目標とした。またシジウィックは,カントの形式主義を一つの柱とする功利主義を展開した。マルクス主義は,資本主義社会において必然的に生じる労働の自己疎外を克服し,人間性を回復するためには私有財産制を否定し,生産手段を共有する労働者階級を中心とした社会主義社会の建設が不可欠であるとした。実存主義は,人間性を喪失した現代人に本来的自己を回復させようとするものである。神を認める立場の実存主義者(キェルケゴール・ヤスパース・マルセルなど)は,人間が超越者と結ぶことによって,真に自己を回復する道を開いた。〈神は死んだ〉と宣言したニーチェは,権力意志の表れとしての“超人”の理想を掲げ,サルトルは,自由であるべく呪われた人間にあっては,自己を選ぶことは同時に人類を選ぶことであると説いた。プラグマティズム(パース・W.ジェームズ・デューイなど)は,すべての観念の源泉は行動にあるとし,人生に対して有用であるか否かによって,真偽・善悪・美醜が決まるという実用主義を主張した。現代のヒューマニストとしては,ガンジー・シュヴァイツァーなどがいるが,シュヴァイツァーは生命を守り,より高い価値に高めることが善であるという“生命への畏敬”の倫理を説いた。
〔参考文献〕古川哲史編『倫理学』角川全書
金子武蔵『倫理学概論』岩波書店