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●隣保制度(中国) りんぽせいど

アジア 中華人民共和国 AD 

 中国において成立をみた五人組のような隣組制度。隣保の制が法令の上に明確に規定されたのは唐代であった。すなわち唐の戸令(開元7=719年)に,〈四家を隣となし,五家を保となし,保に長あり,以てあい禁約す〉とあるのがそれである。これによると,隣と保は戸数を1戸だけ違えて村落社会に並存した単位であったとなるが,この差違,とくに隣をどう解するかで,いくつかの見解が出されている。その一つは,5戸で構成される1保のうち,ある1戸が罪を犯した場合,残りの4戸が共同責任を負う,つまりその残りの4戸が隣にあたるとして,隣を保内に含ませる考え方である。ほかの一つは,支配の側から設定された保とは別に,それぞれの家には東西南北において隣接し日常的なかかわりをもつ家があり,その隣家こそが隣であり,保とは次元を異にするものとする見方である。このほか,1保のうちの保長戸を除く4戸を隣とする意見もある。これに対して保とその責任者保長については,律令支配体制の末端に位置し,民衆の統括に具体的に関係するものとするとらえ方で一致をみている。隣保制とは,本来,連帯責任・相互監視のもと,犯罪の未然の防止と発生した場合の官司への報告および逮捕,逃戸の流出・流入の防止といった主として治安上の問題にかかわり,農民を土地に緊縛させるための組織であり,あわせて農民間の相互扶助への機能も期待されたが,のちには徴税業務等のさまざまな負担も強制された。唐の民衆統治は,中央に直結する州(郡)−県の地方行政組織から,100戸を単位とする里,500戸(5里)の郷より成る郷里制をへて,隣保におよび完結したのであった。ところでこの制度の成立までには,長い歴史的背景が存在する。『周礼(しゅらい)』によれば,すでに古代の周の時期に5家を単位とする比あるいは隣があり,それぞれに長が置かれ,軍隊の編成にも関係したといわれる。『周礼』はおそらく漢代ごろの作と考えられるが,しかし民衆をこのように把握しようとする意識が為政者の間に早くより芽生えていたことは確かであろう。一方,後世への影響という点で注目されるのは,前4世紀のなかごろ,秦の孝公の下で商鞅(しょうおう)が断行した変法の一つ,什伍の制である。これは,大家族を小家族に分解した上で,5戸(伍)ないし10戸(什)ごとに一つに組織し,連座制によって犯罪の発生を防ぎ,罪人を穏匿する者を腰斬の刑に処する規定のものであり,その結果,社会の治安はよく保たれたといわれる。のち漢朝ではこれに類する伍制が行われたとされるが,当時地域社会は郷三老などの名望家層に率いられて自治機能を有し,皇帝権力もかれらを介して間接的にその下におよんだとみられることから,その制度の徹底化は難しかったと考えられる。以後歴代王朝で伍制が試みられたが部分的にとどまったようである。そうしたなかで異民族鮮卑から出て華北を征服した北魏が,5世紀の末の孝文帝のときに三長制を創設,戸口の把握に積極的に努めるにいたって,村落統治のあり方は一変するが,この制度の基礎をなしたのが,5戸からなる隣(隋では保)であった。三長制は,589年(開皇9)の隋の全国統一をまって,郷里制に発展的に解消されるものの,その基礎単位はそのまま残され,唐へとうけ継がれた。いい換えれば,唐の隣保制の直接の渕源は,北魏三長制に求めることができる。なお唐のこの制度は,つぎの北宋の1070年(煕寧3),王安石が新法の一環として実施した保甲制において,それを構成する基本単位の保として復活をみ,唐とほぼ同様の責務を負うと同時に,民兵的組織としての機能も新たに加えられた。そしてこの形態がほぼ今日にいたるまで踏襲され,民衆生活を一面で規定することになった。

〔参考文献〕宮崎市定「四家を隣と為す」『アジア史研究』4,1964,東洋史研究会

増村宏「唐の隣保制」『史渕』76,1958