●林爽文の乱 りんそうぶんのらん
アジア 台湾 AD1787
1787〜88年台湾でおこった反乱。林爽文の原籍は福建省であったが,1773年(乾隆38)父に従って台湾に渡り彰化県(現在の台中県)大里杙(よく)に住む。県の捕役などをしたが,1783年(乾隆48)に同郷の厳煙が渡海して彰化に布鋪をひらき天地会を伝えたのに入会し,1786年(乾隆51)には当地の会首となった。1786年台湾知府孫景燧らが謝羅県(現在の嘉義県)の天地会を弾圧したのを契機として,同年末林爽文は1,000余人を率いて大里杙に反乱をおこした。林は彰化を占領したのち「順天盟主大元帥」となり年号を「順天」として政権を樹立し,台湾西部のほぼ全域を勢力下におさめた。漢族・非漢族あわせて数十万人が加わり清代を通じて台湾最大の反乱となったが,内部の郷里意識の対立もあって,清朝が福康安(フカンガ)を派遣し鎮圧させると各個撃破され1年2カ月余りで終息し,林は1788年(順天3・乾隆53)北京で処刑された。この反乱の社会的背景には,鄭氏政権下の「官田」が清朝の統一後,官僚・地主の大土地所有の対象とされ重層的で複雑な土地所有関係を形成していたこと,正税のほかにも「蕃銭」などと呼ばれる多くの付加税を徴収されたことがあげられ,官僚機構の腐敗が民衆の反抗を生みだしたといえる。さらに中国大陸からの大量の人口流入が上記の問題をより顕在化したという面も否定できないと思われる。