●林則徐 りんそくじょ
アジア 中華人民共和国 AD1785 清
1785〜1850 清末の官僚政治家。福建省侯官(福州)の人。字は元撫・少穆,号は竢村老人,諡は文忠。私塾の教師を父とし,極貧の家庭に育ったが,幼少より抜群の学才を発揮して,20歳で挙人,27歳で進士(1811,嘉慶16,237人中第7位)となり,翰林院庶吉士・編修をへてエリート官僚コースを順調に進み,江蘇・浙江・陝西・湖北・河南諸省の地方高官を歴任,1831年河東河道総督,1832年47歳で江蘇巡撫となった。この間彼は一貫して民衆生活に直結した塩政・水利河工・災害救済などの問題を取り組み,民苦を救うことに全力を傾けたので,行く先々の任地で人民の非常な尊敬と支持をうけ,裁判の公正さで「林青天」と称された。1837年湖広総督に昇任し,当時清朝最大の政治問題となっていたアヘン対策論議において,友人たる鴻臚寺卿黄爵滋の吸飲者死刑を主張した厳禁上奏を全面的に支持するとともに,任地の湖北・湖南で厳重な取締りを行い,大きな成果をあげた。道光帝は厳禁政策に臨んで林の卓越した方策と取締実績に動かされ,彼を欽差大臣に登用し,広東に赴いてアヘン取締りに当たらせることにした。1839年3月広州に着任した林は,アヘン貿易の実態についての周到な調査に立って,イギリス貿易監督官チャールズ=エリオットを相手に,外国商人のアヘン2万箱以上の没収に成功したが,将来アヘンを中国にもちこまないという誓書の提出をイギリス側が拒否したことから局面が紛糾し,さらに7月,九竜でイギリス人水夫が村民林維喜を殴打殺害するという事件がおこって,英清関係はさらに険悪となり,イギリス人はすべて国外追放に処せられた。イギリス本国政府は,林による清朝の強硬政策に対抗するために,1840年4月対清遠征軍の派遣を決定した。遠征軍は7月定海を攻略したのち北上して白河口沖に至り,直接北京朝廷を脅威したので,清廷は主和政策に転じ,林は罪をうけて免職された。林は免職後しばらく広東および浙江で軍務補佐に従事することを命ぜられたが,1841年6月イギリス軍の侵攻をまねいた責任を問われ,位階を奪われてイリ(伊犁)に流されることになった。しかし,8月黄河が決潰したため,9月から河工に当たることを命ぜられ,翌年3月その完成後イリに向かい,12月到着した。1845年10月許されて帰京を命ぜられ,帰途翌年4月まで陝甘総督代理の任についたのち,1847年3月まで陝西巡撫,ひきつづいて1849年6月まで雲貴総督をとめ,病のため辞職帰京したが,翌年9月太平天国鎮圧のため欽差大臣に起用され,10月広西に赴く途中潮州で没した。林が官僚政治家として民生に努力を傾注したこと,広東在任中,西洋事情の調査を積極的におし進め,また民衆の力量を信頼しこれを対英戦力に編成して長期遊撃戦態勢を整えたことなどは,彼の進歩性として高く評価される。〔参考文献〕来新夏編『林則徐年譜』1981
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