●臨済宗 りんざいしゅう
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臨済義玄を開祖とする禅宗の一派。臨済義玄は,百丈懐海法嗣の黄檗希運に師事して印可を受けた。臨済寺(河北省正定府)を中心に,師の峻烈豪快な宗風を受け継ぎ臨済宗をひらいた。宋代には臨済は,大いにふるい,わが国の道元はその著『正法眼蔵』で,〈見在(げんざい)大宋には,臨済宗のみ天下にあまねし〉と書きしるしている。臨済義玄は,〈「赤肉団(しゃくにくだん)」(肉身)上に一無位の真人あり,常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざらんものは,看よ看よ〉と迫り,あるいは棒で打ち,あるいは大声でどなり,活殺自在に道を説いた。臨済義玄を継いだのは,興化存奨・三聖慧然(えねん)らで,慧然は義玄の語録『臨済録』を編纂した。存奨以後,石霜楚円らなどに引き継がれ,楚円のもとに黄龍慧南・楊岐方会の2大名僧を輩出した。二人はそれぞれ楊岐派・黄竜派を立てて,ここに中国禅宗の五家七宗の成立をみた。日本の臨済宗は,栄西が2度の渡宋によって初めて臨済禅を伝えた。栄西の臨済禅は,黄龍派のそれであった。栄西は1191年(建久2)帰国し,京都に建仁寺をひらいた。その法嗣はやがて北条泰時の帰依を受けて,鎌倉に浄妙寺・東時寺を建てた。1246年(寛元4)蘭渓道隆は,北条時頼に招かれて建長寺をひらいた。1279年(弘安2)無学祖元は,北条時宗に招かれて,円覚寺の開山となった。前者を大覚寺派といい,後者を円覚寺派(無学派)という。臨済宗は,道元の曹洞宗が地方教化に尽くしたのに対し,北条氏や足利氏の保護を受け,上層武士の帰依により,当時の政治・外交・文化のいわば骨格を構成した。