●両墓制 りょうぼせい
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【両墓制の概念】死体を埋葬した上に石塔を建て供養の場とする単墓制に対し,死体を埋葬した地(埋め墓)とは別の場所に石塔を建て長く霊をまつる対象(詣り墓)とする仏教的風習を学術語として50年ほど前から両墓制ということになった。後者の場合埋葬地点には石塔を建てず忘却にまかせ,年へればそこに別の死者を葬るので,被葬者の埋葬地点は不明になる。埋め墓を第1次墓地,詣り墓を第2次墓地ともいい,複葬の一種とする。分骨して二つの墓がある場合は両墓制といわない。【両墓制の名称】地方により埋め墓・詣り墓ともに種々の名称がある。埋め墓にはサンマイ・ムソバ・ステバカ・ウメバカ・イケバカ・ミハカ・墓・墓地など,詣り墓にはラントウバ・石塔墓・アゲ墓・カラムショ・タッチャバ・祭り墓・清墓などがある。ムソは墓所である。
【両墓制の分布】近畿地方一帯に濃厚で淡路島にも多い。北は福島県南部,西は岡山県,四国東半までで九州にないことが,成因論上問題になる。北陸も稀薄である。なお近代に消滅したり,発生したりした例もあるので正確な分布図は描きにくい。
【両墓制の実態】位置的関係では埋め墓は集落から離れた所,詣り墓は村の寺院などが多い。京都奈良地方では墓地の地所を二分した例,上下段にある例もあり,両墓間の距離からの研究もある。村で特定の家だけが両墓制という例もある。埋め墓へまいる期間は初七日・四十九日・1周忌までとか,盆彼岸にはまいるなどさまざまで翌日まいるだけという例もある。埋め墓を早く放棄して詣り墓へまいるのが古い形とされる。両墓間の物的関係として埋墓の土を移し毛髪などを納めて立塔する例はあるが,むしろ何物をも移さない例が多い。また改葬して遺骨を詣り墓に納める改葬両墓制が少数あるが,なかには明治の法令にもとづくものもある。石塔は僧の手によって開眼し法要墓参も詣り墓が対象である。近来火葬が普及し火葬骨は清まったもので詣り墓に埋納しても差支えないとの考えから,火葬骨単墓制に移行し,両墓制は消滅しつつある。
【両墓制成立の時期】詣り墓は石塔をもって構成される。浮彫・丸彫仏も同類である。現存する詣り墓石塔の年代が問題になる。近畿のような先進地帯では16世紀初めからの例証があるが,17世紀からが多く明治時代の成立例もある。
【両墓制の成因】各地の伝承では墓地が狭いので,埋葬地点に立塔していると余地がなくなる。また穢れた埋葬地をはなれて清浄な場で霊をまつる。埋め墓が遠いので,まいる便宜のため,このような風習ができたなどという。研究者のなかでは次のような説がある。(1)わが国では先史時代から改葬のあったことが考古学的に証明されていて,この風が変化し骨を移すことから石・土に略化し,ついには何物をも移さず石塔を建てる詣り墓が成立した。(2)改葬移骨とは関係なく,仏教信仰にもとづき祖先の霊に礼拝供養する墓参りの風がおこり,詣り墓が成立した。古来の伝統にもとづく習俗であれば,九州にその風がないことは納得できない。(3)かつて日本全土に死者尊重の風があり,改葬が行われていたのが,いったん消滅して単墓制となり,その後,葬地の穢れを避け,霊肉を分離してまつるという伝統的思想から,詣り墓が成立し,中央部から地方へ伝播した。南島には今も改葬洗骨が行われており,本土にも数カ所改葬両墓制が残っている。
このほか,菩提寺が詣り墓にあたるものであったとか,寺院が霊場化して祖霊祭祀の場となり,詣り墓が成立したとする説もある。しかし現在万人の納得する定説はない。両墓制の現在の形態や伝承だけから結論をえることはむずかしい。両墓制の埋め墓の概念は明確であるのに対し,詣り墓を“祭地”と規定する考え方が両墓制の解明に混迷を招いている。
〔参考文献〕最上孝敬『詣り墓(増補版)』1980,名著出版
新谷尚紀「両墓制についての基礎的考察」『葬送墓制研究集成』第4巻墓の習俗,1982,名著出版