●両税法 りょうぜいほう
アジア 中華人民共和国 AD
中国,唐代中期以降に,租庸調制に代わって実施された税制。780年(建中1),宰相楊炎(ようえん)の建議によって施行された。唐初以来の租庸調制は,丁男労働力を等質とみなし,それゆえに均等な土地保有を前提として本籍地戸籍に登録された丁男単位の均等賦課を原則としたものであった。則天武后期ごろより顕在化し始めた農民層の分解と土地所有の不均衡は,安史の乱をへてさらに激しくなった。それにともない土地を失って本籍地を離れた客戸が増加し,税収は激減した。不足を補うため,さまざまの正税外の付加税が追徴され,もっぱら土戸下層に負担が集中してさらに逃亡戸を生むという深刻な社会矛盾となった。徴税現場の州県では中央からの頻繁な追徴命令に対処するため,年間追徴予想額をもうけ,それと正税とを合わせて,夏秋の両収穫期に各戸の収穫量などに応じて一括徴収する方法をとる所が多くなった。このように州県では,あらゆる税目を夏・秋両回の徴収に統合する方法がすでに一般化しつつあり,それは現実社会の情勢に則したものであった。780年の楊炎による両税法施行は,州県段階でのこの便法的税法を,全国規模の正規の税制として整備したものである。両税の名称は夏季と秋季の両収穫期に徴税することによるが,当時の麦作の普及と粟稲との連作という農業事情をも反映したものである。両税法の主な内容は次の諸点である。[1]6月を納期とする夏税と11月を納期とする秋税の両回徴収の原則。ただし,夏税対象は冬作の麦田,秋税対象は夏作の粟稲国であり,同一田産への両回徴収ではない。[2]各戸の資産額を査定し,それに丁男数を加味して戸等を定め,戸ごとに賦課する,戸単位・資産対応の原則。[3]主戸・客戸の区別なく,有産戸はすべて現住地で戸籍につけて賦課する,現住地主義の原則。[4]従前の租庸調雑徭(よう)や各種付加税等の税額を廃し,すべて両税に統合する,単税の原則。[5]中央政府および州県の年間経費を予算化し,それを各州県に割りあてる,量出制入の原則。[6]予算や税額の決定および徴税はすべて貨幣に換算して行う銭額銭納の原則。ただし,実際の納税には従来どおりの穀物や絹等での代納を認める。[7]都市商工業者は店舗・作業場・所有地などで資産が査定されて税額が定められ,行商に対しては現在地の州県で運搬する商品価格の30分の1を商税として徴収する。【両税法の運営面】両税収入のうち,県の必要経費を留県,州の必要経費を留州,藩鎮(節度使)の必要経費を留使(送使)といい,それぞれ上級区へ送付する前に留めおき,残額を中央政府へ上供として送った。留県・留州・留使の地方経費分と上供の中央政府分は,地方2に対して中央1の配分とされた。留県以下は定められた基準があり,したがって全体としての両税額にも基準枠があった。基準枠を厳しく設定することで肥大化しがちな支出を抑制したのである。施行初年の780年における唐期が把握した戸数は320万戸,うち180余万戸が主戸で,130余万戸が客戸であった。つまり130余万の有産客戸を新たに課税対象として把握しえたのである。また同年の両税予想総額は穀物600余万石と銭額3,000余万貫で,うち確定上供分は穀物200余万石,銭額は1,000余万貫であり,この額と比率は唐末まで大きな増減はない。両税法は,零細な小農民であれ,大土地所有者であれ,上地を所有するものすべてを徴税対象とするもので,均質な丁男労働力による均等な耕作地といった従前の均田租庸調制の理念を全面否定したものである。つまり大土地所有の容認を意味するもので,以後,土地所有の法的規制がなくなり,大土地所有(荘園)は著しく発展する。また両税法の銭納原則は,農民に貨幣の入手を強制し,貨幣経済の波が農村にまで及んで農民の階層分化をさらに促進した。両税法の施行は,唐代中期の大きな社会的構造変化を背景に出現したもので,基本的には明代まで継承されていく税法である。
〔参考文献〕日野開三郎「唐代両税法の研究」『日野開三郎東洋史学論集3・4』1981,82,三一書房