●遼 りょう
アジア 中華人民共和国 AD
916〜1125 北アジアから華北にかけて,契丹族が建てた国。中国における征服王朝の一つとされる。首都は上京リンコウ※注1※府(内蒙古自治区林東県)。【契丹族の台頭と遼の建国】契丹族は蒙古系の遊牧民族で,中国の史料では4世紀以来,東部蒙古のシラ=ムレン川南縁に活動していた。当初は周辺の強大な勢力(高句麗や中国の北朝・隋・唐など)に服属していた。7世紀初には唐の派遣する都護の管下で,族長が都督や刺史に任命されて自治を認められる「羈縻州(きびしゅう)」となって遼州総管府・松漠都督府を形成した。唐の則天武后朝(7世紀末)にいたり,独立を企てたがこれは失敗に終わった。だが,このことは彼らの民族的自覚を高めた。安史の乱(755〜763,聖武1〜順天4)以後,唐朝の勢威が衰え始めると,ふたたび部族的結合を強め,契丹後の2大姓(耶律氏・審密氏)のなかから耶律阿保機(872〜926)が出て民族を統一し,916年,皇帝を称し神冊と建元した。これが遼の太祖(在位916〜926)である。彼は早くから南進して華北に侵入し,多くの中国人を捕虜として連行し,有能な者を登用して政治権力を固めていた。即位後,西は突厥(とっけつ)・党項(タングート)・ウイグル諸族を押さえ,926年には東の渤海国を滅ぼしてここに東丹国を建て,中国征服の足場を固めたが,同年,帰国の途中病没した。
【燕雲16州の獲得】第2代太宗(在位926〜947)は,中国の五代・後唐の部将セキケイトウ※注2※と結び,936年,大軍を率いて晋陽(山西省太原市)に入り,後唐を滅ぼした。セキケイトウ※注2※は後晋を建て高祖となった。この代償として,中国の東北偶の長城以南の燕雲16州を後晋から割譲させ,国号を大遼と号した(当初は契丹国と号した。のち982年,契丹に復され,さらに1066年,ふたたび大遼と改められた)。一方,中国では五代の混乱を収拾して趙匡胤(太祖)が,960年(建隆1)宋朝を建て,第2代太宗になって全土統一に成功した(979,太平興国4)。燕雲16州を異民族に奪われたことは漢民族にとって屈辱的であり,かつ,国土を北方異民族から守るための戦略からも大損害であったから,これの回復こそ宋朝の悲願であり,ここをめぐって両軍の交戦がつづいた。だが,宋の建国以来の文治主義で軍隊は弱体化しており,回復はならなかった。
【セン※注3※淵の盟】遼に第6代聖宗(在位982〜1031)が登場するころ,中国の西北辺で党項族が勃興して宋を苦しめたうえ,党項が遼と結んだことから遼の南侵が始まった。これは999年(統和17)に始まったが,1004年(宋暦景徳1・遼暦統和22)聖宗は20万の大軍で定州(河北省定県)を攻囲した。宋の真宗は宰相寇準の意見をいれて親征し,黄河を渡って「セン※注3※州」(河北省濮陽県)に進み,ここで両軍が対峙した。が,結局,両軍は講和することとなり,同年,セン※注3※淵の盟(セン※注3※淵はセン※注3※州の雅名)が結ばれた。これは[1]従来の国境は変更しない(後周の世宗が回復した瓦橋関・益津関以南を除いては遼の領土),[2]宋は兄,遼は弟の礼で交際する,[3]宋は毎年銀10万両,絹20万匹を遼に贈る,というもので,宋にとってはかろうじて兄という面目を保ったにすぎない実質的な敗北であった。歳幣は1042年(慶暦2・重煕11)銀20万両,絹30万匹に増額されて,1123年(宣和5・天会1)までつづいた。こうして聖宗・興宗(在位1031〜55)・道宗(在位1055〜1101)の3代約120年間の発展期を迎えた。聖宗は朝鮮半島の高麗や現在中国東北と呼ばれる地方(満州)北部の女真族,西方の甘粛方面の党項族の西夏国をも服属させ,勢威は中央アジアからイランにまで及んだ。
【遼の衰退】しかし,一方で国力の充実をはかるため漢化政策を積極的におしすすめた結果,これに反発して国粋主義を唱える保守派と漢化主義をすすめる革新派の対立が深まった。興宗・道宗時代には保・革両派の対立に帝室内部の権力争いがからみ,反乱や暗殺事件が繰り返された。おりしも,現中国「東北地方」北部にあって遼に服属していた半農半猟のツングース系女真族が遼の政治的・経済的抑圧に対して完顔部を中心に結束して抵抗,1115年(収国1),完顔阿骨打は皇帝を称して金国を建てた(太祖)。金は宋と海上をへだてて密約を結び,遼を挟撃しようとした。この国難にさいし,遼の支配者は仏教の大法会(だいほうえ)や鷹狩りに日時をおくっている有様であったから,新興の金軍に重ねて敗れ,最後の皇帝天祚帝(在位1101〜25)は陰山山中に逃れたものの1125年(保大5・天会3)捕えられて,ここに遼朝は9代200年余で滅亡した。なお,このとき,王族の耶律大石はトルキスタンに走って西遼国を建国した。
【遼の政治体制】遼は契丹族を初めとする遊牧民には固有の部族制を,漢人・渤海人・高麗人など定着農耕民には中国と同じ州県制を布く,いわゆる二元統治を行った。しかし,国家・軍事の最高権力は契丹人にある一元支配であった。[1]“北面官”(北枢密院)が最高機関で,遊牧民の軍民両政と農耕民の軍政を統轄し,そのもとに諸官があった。地方では部族−石烈−弥里という行政単位をおき,部に節度使をおいた。[2]“南面官”南枢密院)を農耕民の最高行政機関としてそのもとに唐末五代の官制に準拠する三省六部などを置いた。地方は州県を置き,民政には刺史・県令,軍政には節度使司・観察使司などを配した。
【軍制】契丹人については皆兵主義で,行政単位の部族が軍事上の編成となり,遊牧地の場所による軍団があった。農耕民は正規軍ではないが郷兵制が布かれ,戦陣にも加わった。
【法制】当初から唐の律令を取捨選択し,それに北方民族固有の部族法を加えた。1036年(重煕5)の『新定条例』547条などがある。
【経済】牧畜生産経済と農業生産経済とに二分されるが,いずれにせよ,王族や族長層が領主権力を構成し,隷属民を支配した。国は遊牧民からは家畜税を現物徴収したと思われるが,詳細はわからない。農耕民に対しては両税法を基盤とする土地税であった。しかし遼は農民や捕虜を草原地帯に強制移住させて勧農政策をとり,しだいに国家財政の大部分を農業生産経済に依存する体制をすすめた。また紡織・製陶などの各種製造業も興ったため,流通経済も発達して都市的繁栄も生じた。このことは農耕民の経済的優位化を意味し,逆に牧地の狭隘化や家畜の減少につながった。これが上述した政治上の国粋的保守主義と漢化政策をとる革新主義の対立の背景でもあったから,この両者の社会・経済上の相克の激化が遼衰亡の要因となったとみられる。一方,11世紀に党項族(西夏)の勃興でシルク=ロードによる東西貿易が中国の西辺で遮断された。ウイグル人はこれを克服すべく新しいルートを開いたが,その一つが内モンゴリアから遼国内をへて華北にいたる隊商路であった。しかし,ウイグル人の欲する絹は遼では産出しない。そこでセン※注3※淵の盟以後,遼が宋から毎年入手した莫大な銀・絹(とくに銀)が,遼の国内産業振興の資とならずにウイグル人のもたらす奢侈品と交換され,むなしく西方に流出したことも,征服王朝としての遼の歴史的限界であったといえよう。
【思想・宗教】固有の信仰として古来からシャーマニズムがあったが,太祖の建国以後,シャーマニズムと結びつく氏族制に打撃を与えるべく,儒教・仏教がとり入れられた。のち中国との対抗上,儒教を排して仏教に傾いた。各地に寺院・仏塔が建立され,大蔵経(だいぞうきょう)なども板行(はんこう)された。
【文字】蒙古語の1方言である契丹語の表記法については,民族的自覚の高まった太祖朝で契丹文字(大字と小字)が創成された。資料としてワール=イン=マンハの帝陵出土の墓碑銘2,000余字があるが,完全には解読されていない。
【建築・美術・工芸】遊牧民出身であるから,寺院を中心とする建築は中国様式の模倣であるが,唐末五代の様式をよく今日に伝えるものが残されている。絵画・彫刻・陶磁器なども中国の影響を受けながらも独自の優れた作品がある。遼三彩なども有名である。
〔参考文献〕愛宕松男『契丹古代史の研究』1959,東洋史研究会
島田正郎『遼代社会史研究』1952,三和書房
田村実造『中国征服王朝の研究』上,1964,東洋史研究会
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