●劉裕 りゅうゆう
アジア 中華人民共和国 AD363
363〜422(永和12〜永初3)在位420〜422 中国,南朝宋第1代皇帝。彭城綏輿里(江蘇省銅山県)の人。字は徳輿・小名寄奴,廟号は高祖。漢の劉邦の弟楚元王劉交の子孫と称するが,西晋末の戦乱を避けて揚子江南岸の京口に移住した諸劉の一族で、劉裕は貧しい下級官吏の子として生まれた。樗蒲(ばくち)の負債を名族王謐に助けられたという話が伝えられているように若いころは無頼であった。京口の北府軍団に入り399年(隆安3)に孫恩の乱がおこると前将軍劉牢之の北府軍の参軍としてこれを追撃して勇名を馳せた。402年孫恩軍が撃退されると建康政府の司馬元顕と桓玄が衝突し,勝利者の桓玄が北府軍団を掌握したので,かれも桓玄に従ったが,東晋を奪い楚国をたてると,404年弟の劉道理・劉毅・何無忌らとクーデタをおこし,桓玄を破って東晋朝を復活した。東晋の実力者となった劉裕は409年北伐して南燕国を滅ぼし,410年には廬循の水軍を撃破してその根拠地広東をおさえ,さらに412年に,ライバルの荊州軍閥の劉毅を討滅した。こうして北府軍団の武力を背景として東晋朝の実権を握った劉裕は413年土断政策を行い編戸の充実をはかって国力をたくわえ,416年北伐を敢行。翌年,長安を奪回して後秦の姚泓を斬った。帰国後革命工作を進め,420年東晋の禅位を受け,宋をおこした。劉裕は即位後3年目に死ぬが貴族や豪族をおさえ南朝軍事政権の基礎を固めた。〔参考文献〕『宋書』1―3武帝紀
吉川忠夫『劉裕』1966,人物往来社