●琉球藩 りゅうきゅうはん
アジア 日本 AD1872 明治時代
明国と冊封関係にあった琉球国は1609年(万暦37・慶長14)の薩摩藩琉球侵入以来日本と中国に両属してきた。明治政府は琉球王国を琉球藩として日本に組み入れ,さらに沖縄県として実質的国内化をはかった。琉球藩とは,1872年(明治5)9月14日(陰暦)より1879年(明治12)3月11日までの琉球の公称である。【琉球王国から沖縄県へ】明治政府は1871年(明治4)7月14日(陰暦)に廃藩置県を断行した。その結果,薩摩藩は鹿児島県となり,琉球王国は鹿児島県の支配するところとなった。琉球全国の日本・清国への両属は,民族的統一をはかる明治政府にとって不都合であり,早急に解決しなければならない問題であった。そこで第一段階として,翌1872年に伊江王子(尚健)と宜野湾親方(向有恒)らを上京させ,9月14日,琉球王国を琉球藩として名目的に日本の版図に組み入れた。つぎに明治政府は,琉球藩の実質的国内化のため矢継ぎ早に新施策を打ち出した。尚泰王を藩王として華族に列し(明治5年9月14日),藩内融通のため金3万円を下賜し(同9月20日),外務省官吏を琉球に存勤させて対外交渉を外務省の管轄とした(同9月27・28日)。藩王を一等官扱いとして東京府下飯田町檎木坂に邸宅を与え(同9月29日),琉球の負債20万円を肩代わりし(同10月10日),久米島・宮古島・石垣島・西表島・与那国島の5島に国旗を掲示させて琉球王国が諸外国と独自に結んだ条約書を提出させた(明治6年3月6日)。琉球藩印を下附し(同8月7日),琉球藩への郵便を開線し(同10月20日),天皇・皇后・皇太后の写真を下賜し(明治7年2月14日),藩の年貢米を8,200石と定めた(同6月23日)。そして1875年5月13日,松田道之に琉球藩への出張を命じた。その目的は対清国関係の清算・琉球藩王の待遇問題・藩風の矯正・贈品の処置・藩王の上京問題・藩王病気の際の代行者などについて政府指示を実行させることにあった。琉球の側にはこれらの強硬な施策に対する強い反発があった。しかし,明治年号の使用を渋り(明治8年6月8日),清国との絶縁を拒否する(同8月5日),などの抵抗も効を奏さなかった。1878年,松田道之は“琉球処分案”を政府に提出し,翌1879年3月に内務官僚・警察隊・熊本鎮台分遣隊を率いて琉球に到り廃藩置県を断行した。これがいわゆる“琉球処分”である。
【琉球の所属問題】琉球藩の廃藩置県は琉球の国内化の問題であると同時に,琉球の所属をめぐる日清間の国際問題であった。琉球王国王が藩王に封じられる2カ月前,明治政府は台湾住民による宮古島漁民殺害の事件報告を受けた。そこで日清修好条規批准書交換(1873)の際に台湾は清国にとって“化外の民”であるという言質を取るや,琉球王国が日本国に属することを論拠に台湾へ出兵した(1874)。その後断行された廃藩置県に清国は強く抗議し,李鴻章から調停を依頼された前アメリカ大統領グラント将軍は,仲裁案として“琉球分島案”を暗に示した。1880年10月,日清修好条規に日本の最恵国待遇を盛り込むことを条件に,宮古・八重山両先島を清国に割譲すべく調印がなされようとした。幸いにも調印は延期となり,分島案は実現をみなかった。その後清国から正式の抗議のないまま琉球の日本所属は既成事実となり,日清戦争における勝利によって国際的にも承認されるに至った。諸外国も琉球の行方に強い関心を示したことが,当時の外国新聞記事に表れている。
〔参考文献〕金城正篤『琉球処分論』1978,沖縄タイムス社
横山學編『琉球所属問題関係資料』1980,本邦書籍